落選後の活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 05:52 UTC 版)
2004年、小泉のはからいで民間人の自民党憲法調査特別顧問および首相補佐官に就任。2005年の衆院補選に当選して議席を回復し、同年の郵政民営化法案を審議する特別委員会筆頭理事として小泉の郵政民営化に尽力していたが、郵政解散の頃から小泉とは距離を置くようになる。同年、自民党安全保障調査会長に就任。これ以降、中国、韓国との関係をより重視する加藤紘一や福田康夫、古賀誠と連携を密にする。2006年に政権に就いた安倍晋三とは、対北朝鮮政策を巡って度々対立。安倍の外交姿勢は圧力に傾倒しており、日本の孤立化を招き、国益を損ねると批判した。 2007年1月、北朝鮮を電撃的に訪問し、行き詰まった北朝鮮の核問題や拉致問題の状況打開を図る。平壌で北朝鮮の宋日昊・日朝国交正常化交渉担当大使と会談。北朝鮮の核放棄や拉致被害者の日本帰国を迫ったが、実現には至らなかった。 2007年、安倍改造内閣が退陣すると、ポスト安倍に福田康夫を支持した。福田康夫内閣が成立すると、自民党外交調査会長に就任、引き続き外交や安全保障政策を中心に活動を行う。次いで麻生内閣においても再任されたが、次の第45回衆議院議員総選挙を見据えて旧YKKの加藤とともに新党結成に動き、国民新党代表代行の亀井静香の仲介で民主党の小沢一郎とも会談をもった。結局、第45回衆議院議員総選挙には自民党から出馬したが自民党は大敗、山崎は再び落選した。落選後も、山崎派会長職を2012年に石原伸晃に譲るまで務めた。 2010年の第22回参議院議員通常選挙に比例区からの立候補を目指していたが、自民党の定年制度により公認されなかった。2010年3月頃、国民新党代表の亀井静香に同党入党を前提とした内閣参与入りを要請されたが、即時拒否した。2012年、次の選挙には出馬せず、引退を表明した。現在は自身が設立した近未来政治研究会の最高顧問を務めている。2015年3月11日、さとやま・草莽の会の結成に参画した。 2016年7月、YKKを振り返った回想録『YKK秘録』を出版。9月には加藤が死去し、合同葬で弔事を読んだ山崎は、その最後で「いわゆる加藤の乱についてはあれは一度も止めなかった僕が悪かった。すまんという他ありません。」と締めくくった。 2018年3月14日、衆院議員会館で行われた石破派の憲法改正に関する勉強会で講師として招かれた。 2021年の第49回衆議院議員総選挙の大阪10区において、公示後の10月27日、自民党前職の大隈和英も立候補しているにも関わらず、立憲民主党の辻元清美の応援演説に立ち、投票を呼び掛けた(結果は、大隈・辻元ともに落選)。これを受け、同年12月13日の自民党党紀委員会にて、党の規律を乱したとして山崎の党員資格停止1年の処分が決まった。
※この「落選後の活動」の解説は、「山崎拓」の解説の一部です。
「落選後の活動」を含む「山崎拓」の記事については、「山崎拓」の概要を参照ください。
- 落選後の活動のページへのリンク