落選後、民主党時代
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1995年(平成7年)の三重県知事選挙では、自由民主党と日本社会党が推す候補の尾崎彪夫ではなくて(新進党・新党さきがけ・公明党)推薦候補の北川正恭を支持した。この事が日本社会党内に伊藤忠治への反発を生み、日本社会党執行部と対立した事で自ら三重県本部委員長を当然辞職して、日本社会党が党公認候補の申請決定を白紙撤回する事態を招く。厳重注意処分となったが日本社会党執行部と対立した事から日本社会党を離党した。 民主リベラル勢力の結集を目指して、日本社会党を離党して民主党結成に加わり、伊藤忠治は新党の上げ潮ブームを期待して、「民主党三重」を旗揚げする。三重2区の候補者から東海比例区の単独候補となり、当時の菅直人(民主党代表)同じ三重県出身の岡田克也(民主党幹事長と民主党三重県連)から打診され三重4区の鞍替え候補者となり、東海比例区で名簿が第1位で優遇されて当選する。三重2区から旧民主党から立候補時、古巣の社民党とその連立相手である新党さきがけと自民党の推薦をもらい支援をうけたが、自由民主党支援者から「あんたはずっと敵だったから鬼みたいに恐ろしい顔だと思っていたがそうでもないね」と言われた。 後継者の指名と選定は三重短期大学法経科2部の後輩である森本哲生三重県議会議員(松阪市・飯南郡選出)とその後津市長となった、松田直久三重県議会議員(一志郡選出)を協議させた後、森本哲生三重県議を自身の後継者に指名した。伊藤忠治は総選挙対策長として、森本哲生を「哲ちゃんの山を築かせて下さい、哲ちゃんの花を咲かせてください」と応援して、民主党はこの時の衆議院議員選挙で大敗したが、日本共産党の候補樹立断念と三重短期大学同窓会の応援もあり自身の後継者である衆議院議員候補の比例東海ブロックでの復活当選を成功させた。 三重4区は久居市と一志郡以外縁もゆかりもない選挙区であった。相手候補田村憲久の地盤が強くて民主党支援者に聞いても「小選挙区で勝つのは無理だろう」「ならどの選挙区なら勝てるのか」と聞いてもいい答えが返らなかった。田村憲久は「伊藤さんはベテランの議員で気がぬけない」とコメントをした。民主党の岡田克也代表は郵政族で官公労組出身の伊藤忠治に配慮して郵政民営化法案に賛成しにくかった。郵政解散前に自民党の野田聖子など郵政民営化反対派は伊藤忠治など民主党郵政族との連携を模索した。最後の議員活動は小泉内閣の郵政民営化反対討論であった。 2005年(平成17年)に津市のセンターパレスで『伊藤忠治先生感謝の会』が開催された。横路孝弘・赤松広隆・野呂昭彦・中井洽・中川正春・森本哲生衆議院議員と高橋千秋・芝博一参議院議員と連合三重の千田会長など三重県内を中心に日本全国の政界・経済界・労働界の主要人物が集合した。民主党が導入した70歳定年制で70歳の定年を機に次の衆議院議員選挙に出馬しない意思があった。1993年(平成5年)に第40回衆議院議員総選挙で落選していて、1993年(平成5年)から~1996年(平成8年)の期間に与党であった日本社会党の議員として非自民・非共産連立政権の細川内閣・羽田内閣と自社さ連立政権の村山内閣に参加せず与党経験が一度もない野党一筋であったことを誇りにしていた。 自身が公表した伝記の一種である(津実業高等学校の50周年記念誌に記述された夜間部の学生時代のエピソード)の細かい情報と国会議員になった(政治家時代のエピソード)の政治情報などでは伊藤忠治に関係する文献は多いが、子供時代の(戦時中のエピソード)と日本電信電話公社の(公務員・サラリーマン時代のエピソード)の情報や文献は少ないので伊藤忠治についての年譜では子供時代と公務員時代の細かい生活が不明であり、この時期の人生については本人による公表はされていない。学生時代の就職と政治家当選が転機となり、伊藤忠治の人生は(第一期の子供時代・第三期の公務員時代・第五期政界の引退後)は平凡だが、(第二期の学生時代・第四期の政治家時代)は激動の時期だった。1993年(平成5年)の第40回衆議院議員総選挙の落選がなければ、自社さ連立政権と非自民・非共産連立政権など与党時代の郵政大臣などの閣僚や日本社会党の幹部になっていた可能性が強かった。
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