三重県知事選挙
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1972年(昭和47年)、自由民主党の田中角栄・三木武夫により、四日市市を地盤とする衆議院議員山手満男の後継候補のリストに田中知事と九鬼が上がった。九鬼は九鬼財閥など財界の支援があり、九鬼家から2代続けて衆議院議員が出ていたなどの好条件があったが、四日市公害問題での悪評により候補から外れた。田中は県知事選挙で日本社会党の推薦があったことが問題となっていたが、四日市公害の発生地区の塩浜地区出身であり、県知事時代の実績によって三木派の自民党公認候補となり、知事を辞職して衆議院議員に転身した。 田中の転身にともない、九鬼はその後継として県知事選挙に出馬することとなった。九鬼は、公害裁判の判決の頃に田中が決断した総量規制などの公害対策を中止させ、四日市コンビナートの石油企業や化学企業など三重県の財界を優遇することを掲げた。また、芦浜原子力発電所の建設の推進、塩浜地区磯津公害患者への補償中止を公約にした。これに対し、三重県教職員組合は「反九鬼・反公害キャンペーン」を行い、対立候補の田川亮三を全面支援した。教職員組合は、九鬼が県教育委員を務めた時代から全面対決していた。 九鬼は自民党の公認候補となり、九鬼財閥を中心とする財界の支持を得ており、当初は県内の保守層の支持を集めて有利と見られた。しかし、四日市ぜんそく(公害対策)が争点となり、民社党・社会党などの支持を得た田川が当選し、九鬼は落選した。九鬼の落選に対しては、四日市ぜんそくの公害患者をいじめる悪い市長のイメージができたことが要因であると報道された。九鬼を知る者は否定するが、革新政党や環境運動家によって問題政治家のイメージと悪評が県民に宣伝され、四日市ぜんそくの罰が当たったとの声や、公害対策をしなかった天罰だとの声が上がった。
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