県知事時代
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1971年(昭和46年)1月28日、久松定武知事のあとを受け、第46代(民選3代)愛媛県知事に就任する。保守王国・愛媛において、自由民主党が圧倒的多数を占める県議会は、県と二人三脚で県政推進へと邁進していった。こうした体制は、時代背景に加え、白石の独特の人心掌握術があいまってこそのものであった。 知事就任と同時に、人間尊重と生活優先の「生活福祉県政」を標榜し、県民生活・福祉の向上に努める。以後、1973年の「身の回り行政」、1974年の「文化社会政策」、1976年「第三の生活福祉県政」、1978年「地域主義県政」を提唱。このように、キャッチフレーズそのものは移り変わっていくが、「れんげ草」の県政という言葉にあるように、根底にあるのは県民の生活を豊かにするという思考であった。 知事初当選時に公約として、 南予水資源の開発(南予用水、野村ダム等) 瀬戸内海大橋(本州四国連絡橋尾道今治ルートをこう呼んでいた)の建設 愛媛大学医学部の誘致 という三大目標を掲げ、実現を果たした。 加えて、南予レクリエーション都市、県総合運動公園、松山空港、四国縦貫・横断自動車道(今日の松山自動車道)、県総合福祉センター、県民文化会館などの大型プロジェクトを積極的に推進した。 他県との関係では、1982年(昭和57年)に「西瀬戸経済圏構想」を打ち出し、広島・大分両県との関係強化を図った。 国との関係では、田中派をはじめとした大物国会議員とのパイプの太さを誇り、本州四国連絡橋の着手などの成果につながり、後にはテレトピア、ニューメディア・コミュニティ、マリノベーション、グリーントピアなどその当時の中央省庁の各種構想の地域指定による地域振興を図った。 白石の知事就任時は、物価、公害問題などの社会問題が発生していたものの、人々はさらなる豊かさを求めてなお経済開発が求められていた時代であり、経済成長に伴う財政力や陳情による国からの補助獲得等を背景として県営の大型施設の建設も進みやすい時代ではあった。また、中央とのパイプも太く、自民党県連を束ね、県と自民党県連とが一枚岩となって国主導の開発プロジェクトを誘致し、地域振興につなげていく方式で、それが政治的実力者の証とされた時代であった。白石は4期連続で当選し、16年間知事の座にあった。 1987年(昭和62年)1月27日、任期満了をもって愛媛県知事を退く(後継は、副知事として白石県政を支えた伊賀貞雪)。 退任から10年後の1997年(平成9年)3月30日に死去(享年85)。
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