県知事時代とは? わかりやすく解説

県知事時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 06:25 UTC 版)

白石春樹」の記事における「県知事時代」の解説

1971年昭和46年1月28日久松定武知事のあとを受け、第46代(民選3代愛媛県知事就任する保守王国愛媛において、自由民主党圧倒的多数占め県議会は、県と二人三脚県政推進へと邁進していった。こうした体制は、時代背景加え白石の独特の人心掌握術があいまってそのものであった知事就任同時に人間尊重と生活優先の「生活福祉県政」を標榜し県民生活・福祉の向上に努める。以後1973年の「身の回り行政」、1974年の「文化社政策」、1976年第三生活福祉県政」、1978年地域主義県政」を提唱このようにキャッチフレーズそのもの移り変わっていくが、「れんげ草」の県政という言葉あるように、根底にあるのは県民の生活を豊かにするという思考であった知事初当選時に公約として、 南予水資源開発南予用水野村ダム等) 瀬戸内海大橋本州四国連絡橋尾道今治ルートをこう呼んでいた)の建設 愛媛大学医学部誘致 という三大目標掲げ実現果たした加えて南予レクリエーション都市、県総合運動公園松山空港四国縦貫横断自動車道今日松山自動車道)、県総合福祉センター県民文化会館などの大型プロジェクト積極的に推進した他県との関係では、1982年昭和57年)に「西瀬戸経済圏構想」を打ち出し広島・大分両県との関係強化図った。 国との関係では、田中派をはじめとした大物国会議員とのパイプ太さ誇り本州四国連絡橋着手などの成果つながり、後にはテレトピア、ニューメディア・コミュニティ、マリノベーション、グリーントピアなどその当時中央省庁各種構想地域指定による地域振興図った白石知事就任時は、物価公害問題などの社会問題発生していたものの、人々さらなる豊かさ求めてお経開発求められていた時代であり、経済成長に伴う財政力陳情による国からの補助獲得等を背景として県営大型施設の建設進みやすい時代ではあった。また、中央とのパイプ太く自民党県連束ね、県と自民党県連とが一枚岩となって国主導の開発プロジェクト誘致し地域振興つなげていく方式で、それが政治的実力者の証とされた時代であった白石4期連続当選し16年知事の座にあった1987年昭和62年1月27日任期満了をもって愛媛県知事を退く(後継は、副知事として白石県政を支えた伊賀貞雪)。 退任から10年後の1997年平成9年3月30日死去享年85)。

※この「県知事時代」の解説は、「白石春樹」の解説の一部です。
「県知事時代」を含む「白石春樹」の記事については、「白石春樹」の概要を参照ください。

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