青森県知事時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 05:04 UTC 版)
太平洋戦争の戦局悪化に伴いアメリカ軍の本土空襲が日を追って激しくなる中、金井は7月18日に新聞を通じて「家をからっぽにして逃げたり、山中に小屋を建てて出てこないというものがあるそうだが防空法によって処罰出来るのであるから断乎たる処置をとる」との声明を公表する。この声明を受けて青森市では郊外へ避難している市民に対して「7月28日までに帰宅しなければ人名台帳から氏名を抹消し、食糧や物資の配給を差し止める」と警告し、多くの市民が強制的に避難先から帰宅させられたが、青森市街は28日から29日にかけての青森大空襲により市街地の81%を焼失する壊滅的な被害を受けた。このため、結果的に金井の声明が空襲による犠牲者を増大させたとの批判がある。 1946年(昭和21年)1月、公職追放処分を受けて知事を免職となり大野連治が後任の知事に就任する。公職追放後は民間企業に勤めていたが、1948年(昭和23年)に自らの命令で空襲により多くの犠牲者を出したことを悼んで慰霊のため観音像の建立を提唱し、柳町交差点のロータリーに三国慶一作の「平和観音像」が設置された。1964年(昭和39年)に道路拡張のため2代目の観音像が10メートルほど北に作られ、金井らが建立した初代の像は青森市文化会館の4階で展示されている。
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