兵庫県知事時代
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1955年(昭和30年)2月、兵庫県知事の阪本勝に迎えられて副知事に就任。1962年(昭和37年)、阪本が2期目の任期満了に伴い知事を退いた後継候補として知事選に出馬し当選する。1964年(昭和39年)6月、現在の兵庫県庁舎1号館落成を記念して兵庫県旗を制定した。 在任中はちょうど日本が高度成長期に差し掛かっていた時期であり「生活の科学化」をスローガンに掲げて第1次県勢振興計画を策定する。その一方で、1969年(昭和44年)に滋賀県の障害児入所施設・びわこ学園を視察した際の体験を基に提唱し、ダウン症候群などの染色体異常を早期に発見することを目的として出生前診断を奨励した「不幸な子どもの生まれない運動」は優生思想に基づく人権侵害施策として青い芝の会などから強い非難を浴びた。 前任者の阪本に倣って1970年(昭和45年)の知事選挙には出馬せず2期限りで知事を退任する方針を表明し、副知事の坂井時忠が後継に指名された。
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兵庫県知事時代
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1946年(昭和21年)、公職追放により職を解かれた斎藤亮の後任として兵庫県の官選第32代知事に就任。翌1947年(昭和22年)、4月の第1回統一地方選挙で行われる兵庫県知事選挙に立候補するため3月14日付で知事職を一旦辞し、遠藤直人が官選最後の兵庫県知事となった。4月12日投開票の第1回知事選で当選して公選初代知事となり、前福井県知事(未赴任)の吉川覚を県庁に招聘し総務部長とする。内務省出身者の多くが公職追放処分を受けたことによって民間からの抜擢で兵庫県知事となった岸田は太平洋戦争で荒廃した県の戦後復興に当たり、1947年には近畿地方において最初の県民歌である「兵庫県民歌」(作詞:野口猛、作曲:信時潔)が岸田の提唱で制定された。 1948年(昭和23年)4月10日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の指示を受けた文部省の朝鮮学校閉鎖令に基づき県下の朝鮮学校に対して封鎖命令を発動する。4月14日に県庁で行われた在日本朝鮮人連盟との協議は決裂し、4月23日に灘と東神戸の朝鮮学校2校(共に現在の神戸朝鮮初中級学校の前身校)は命令通り警官隊とMPによって封鎖された。4月24日、封鎖撤回を求めるデモ隊が暴徒化して県庁に乱入し、知事室に監禁されて「学校閉鎖令の撤回」「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」「朝鮮人学校存続の承認」「逮捕された朝鮮人の釈放」を誓約させられたが、当日の夜に軍政部が非常事態宣言を発令して神戸市警察の機動隊とMPが県庁に突入して岸田を救出した後、軍政部より前述の誓約をいずれも無効とする宣言が行われる。「阪神教育事件」もしくは「阪神教育闘争」と呼ばれるこの事件で神戸市に発令された非常事態宣言は、占領期の日本において唯一の事例であった。 1951年(昭和26年)の知事選での再選後、副知事の任に在った吉川が1954年(昭和29年)に突如として「県庁内で組織的な裏金作りが行われている」と主張して岸田に叛旗を翻す「お家騒動」が勃発する。岸田はこの告発を「事実無根」として吉川を罷免したが、吉川は連日にわたりマスメディアを通じて岸田の監督責任を問う姿勢をアピールして辞任を要求し、県議会の与党会派であった公正会は岸田派と吉川派に分裂する混乱状態に陥った。吉川の告発を受けた神戸地検の捜査では100名余りが取り調べを受けるも、裏金作りの首謀者として吉川から名指しで非難されていた公房長(現在の知事公室長に相当)は証拠不十分で起訴猶予となる。この結果を受けて岸田は「県政混乱の責任を取る」として11月5日に任期を5か月余り残して辞任し、12月12日に出直し選挙が行われることになったが、選挙の告示直前に尼崎市の前市長・阪本勝が保守分裂の間隙を縫って左右両派社会党の推薦により出馬を表明したことで選挙情勢は一変、岸田と吉川の共倒れとなり阪本が当選した。 「1954年兵庫県知事選挙」も参照
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