三重県知事時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 13:47 UTC 版)
5期17年の知事任期中は、産業振興に尽力して以下の政策を実施した。 道路網の整備 治水事業 伊勢・志摩・長島町・湯ノ山温泉・伊賀を中心とする観光開発事業 伊勢湾台風からの復興 鈴鹿市に自動車産業の本田技研工業を誘致 特筆すべきは、石油化学産業による重工業化の推進ために四日市コンビナートを造成したことと、その後の公害(四日市ぜんそく)対策である。1955年(昭和30年)8月に旧海軍第二燃料廠跡地が払い下げられ、四日市第1コンビナートの建造が始まったが、これにあたって国道1号・国道23号・四日市港などの整備を進め、さらに第2コンビナート(午起地区)・第3コンビナート(霞ヶ浦地区)の埋め立て・四日市コンビナートの誘致などに積極的に取り組んだ。これにより、それまで赤字財政に苦しんでいた三重県も、県民経済計算による三重県の生産所得(GDP)が飛躍的に向上し、各種インフラの整備も進んだ。しかし1958年(昭和33年)にコンビナートが操業を開始すると、まもなく大気汚染によって四日市ぜんそくとして知られる公害病が蔓延することになる。第2コンビナートの操業が始まった1963年(昭和38年)には市全域で大気汚染が深刻化したため、全国初の公害対策室を設置して対策に取り組み、1972年(昭和47年)には国の規制値を上回る三重県公害防止条例を制定した。同じ年に四日市公害裁判で原告勝訴の一審判決が下ると、被告企業に働きかけて控訴を断念させ、原告側の研究者であった吉田克己を所長とする公害センターや、被害者救済のための公害対策協力財団を発足させるなど、抜本的解決に向けて奔走することになる。
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