静岡県知事時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 22:56 UTC 版)
明治19年(1886年)、地方官官制公布により、初代静岡県知事に任命される。為政者として図書活用の有用性を認識していた隆吉は、早くから「久能文庫建設ノ広告」において私費図書館である久能文庫の構想を打ち出していた。 明治20年(1887年)、静岡教会牧師の平岩愃保と共に、静岡県内初の女子教育機関である私立「静岡女学校」(現静岡英和女学院中学校・高等学校)を開校する。初代校長はミス・M・J・カニンハム。 明治22年(1889年)4月11日、名古屋で行われた第三師団の招魂祭への列席のため、自身が敷設に尽力した東海道線開通試運転の工事用貨物列車に併結された客車に乗車中、他列車との正面衝突事故に遭い、客車の前に連結されていた貨車から突き刺さった鋼材が足を直撃し、左足足首打撲骨折の重傷を負う。医師の所見では右足の切断を要する程の重症であるにもかかわらず、関口は頑としてこれを拒んだため、この傷から感染した破傷風が致命傷となり、同年5月17日に亡くなる。 隆吉辞世の歌 世の中は浦島が玉の箱なれや あけてくやしき夏の短夜
※この「静岡県知事時代」の解説は、「関口隆吉」の解説の一部です。
「静岡県知事時代」を含む「関口隆吉」の記事については、「関口隆吉」の概要を参照ください。
- 静岡県知事時代のページへのリンク