細川内閣・羽田内閣
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1993年5月、政治改革をめぐる自民党内の抗争の結果、小沢一郎・羽田孜らは宮澤内閣不信任決議案に賛成した。当初は離党しない方針であったが、決議に反対した武村正義、鳩山由紀夫ら若手議員が離党して新党さきがけを結成し、賛成したグループは離党せざるを得ない状況となった。改革フォーラム21の議員は集団離党し、新生党を結成した。新生党は、社会・公明・民社と非自民・非共産連立政権の樹立で合意した。 同年7月の第40回総選挙で自民党は過半数の奪回ができず、小沢は日本新党の細川護熙に総理就任を打診、細川はこれを受諾し、統一行動をとっていたさきがけも非自民・非共産連立政権の樹立に合意した。 1994年、細川が首相辞任を表明し、後継に新生党党首の羽田孜が就任。当初は社会党も引き続き与党に参画する意向であったが、社会党以外の連立与党が衆院で統一会派「改新」を結成したことから社会党執行部は連立離脱を表明する。結局、羽田内閣は少数与党で発足するが、維持できず、6月25日に内閣総辞職する。その後、社会党の非自民・非共産連立政権復帰を巡って、さまざまな画策が行われたが、結局、社会党は自由民主党との連立の道を選び、自社さ連立政権が発足し、非自民・非共産連立政権は完全に崩壊した。
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