細川京兆家の家臣へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 06:11 UTC 版)
長享2年(1488年)に政之が早世した後、之長はその弟の義春に仕えるも、明応6年(1497年)に義春も早世すると義春の長男である之持が阿波守護となり、祖父成之がそれを補佐する体制がとられた。また、之持の弟澄元は実子が無かった政元の養子に迎えられ、永正3年(1506年)2月19日には澄元の先陣として之長は入洛した。この際の事を『多聞院日記』では「三好之執事」と記しているため、之長は讃州家から京兆家に転身する事になった澄元に仕えて、この頃までには補佐の地位にあったようである。ただし、之長ら讃州家から付けられた家臣の立場は讃州家と京兆家に両属する性格を持っていたことに注意を要する(当時、このような両属は珍しくはなく、後述の木沢長政も畠山氏と京兆家の両属として位置づけられる)。 以後は政元の命を受けて数多くの戦いに参加、8月には大和に出兵していた赤沢朝経の支援を命じられて出兵、戦後には春日神社に詣でている。行政面でも澄元の執事として年貢徴収の紛争問題の解決に着手しており、『多聞院日記』では20年前に京都で一揆を指導して暴れていた頃に較べて「隠(穏)便也」と評している。だがこのように次第に実力をつけ出した事は周囲の妬みを生む事にもつながり、淡路守護の細川尚春や政元の養子・澄之の執事で山城守護代であった香西元長との権力争いが生じた。
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