細川ガラシャ菩提寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 14:57 UTC 版)
「崇禅寺 (大阪市)」の記事における「細川ガラシャ菩提寺」の解説
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦において石田三成の人質になることを拒否した細川ガラシャは自らを家臣に殺害させて、細川家大坂屋敷に火をつけ、死去した。その後、宣教師オルガンチノが焼失した細川屋敷より遺骨らしき物を掘り起こし、細川家菩提寺である崇禅寺に納めたとされる。この経緯から崇禅寺は細川ガラシャの菩提寺となり、先述の足利義教の首塚と並んでガラシャの墓が残っている。ガラシャ没350年の1950年(昭和25年)4月、細川伽羅奢頌徳会が建てた「伝香林院細川玉子之墓」の石柱もある。
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