印象派の形成とは? わかりやすく解説

印象派の形成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 05:18 UTC 版)

印象派」の記事における「印象派の形成」の解説

19世紀中頃は、皇帝ナポレオン3世パリ改造する一方で戦争突き進むなど変化の多い時代であったが、フランス美術界芸術アカデミー支配していた。アカデミー伝統的なフランス絵画スタンダード継承していた。 歴史的な題材宗教的なテーマ肖像画価値あるものとされ、風景画静物画軽んじられた。アカデミーは、慎重に仕上げられていて間近見てリアルな絵画好んだこのような絵画は、アーティストの手描き跡が見えないように、細心にブレンドされ正確なストローク描かれていた。 色彩抑えられ、金のワニスを施すことでさらにトーンダウンされた。 これに対して印象派使った化学絵の具色彩は、もっと明るく鮮やかであったアカデミーには、その審査員作品を選ぶ展覧会であるサロン・ド・パリがあった。ここに作品展示されアーティストには賞が与えられ注文集まり名声高まった審査員選考基準アカデミー価値判断表わすが、それはジャン=レオン・ジェロームアレクサンドル・カバネル作品代表されていた。 1860年代初めに4人の画家クロード・モネピエール=オーギュスト・ルノワールアルフレッド・シスレーフレデリック・バジールは、彼らが学んでいたアカデミー美術家シャルル・グレールのもとで出会った。彼らは歴史的または神話的な情景よりも、風景やその当時の生活を描きたいという共通の興味があることを知ったこの世紀の半ばには次第ポピュラーとなったことだが、彼らは田舎出掛けて戸外で絵を描いた。しかし、一般に行われてたようにスケッチ描いておいて後でアトリエ注意深く作品完成させるのが目的ではなかった。自然の陽光の中で、19世紀初めから使えるようになった鮮明な化学合成顔料大胆に使うことで彼らは、ギュスターヴ・クールベ写実主義バルビゾン派よりも軽く明るやり方で絵を描き始めた。彼らはパリクリシー通りカフェ・ゲルボワたむろした。そこでは若い画家たち尊敬集めていた先輩エドゥアール・マネ議論リードした。すぐにカミーユ・ピサロポール・セザンヌアルマン・ギヨマンもこれに加わった1860年代通じてサロン審査会モネとその友人作品約半分落選とした。従来様式順守するアーティストには、この判定好評であった1863年サロン審査会は、マネ『草上の昼食』落選とした。その主たる理由は、ピクニック2人着衣男性とともにいる裸の女性描いたことである。サロン歴史的寓話的な絵画ではヌード受け入れていたが、現代設定リアルなヌード描いたことでマネ非難した審査会厳し言葉マネ絵画落選としたので、彼の支持者唖然となった。この年異常に多い数の落選作品は、フランスアーティスト動揺させた。 1863年落選作品を観たナポレオン3世は、人々自分作品判断できるようにすると宣言し落選展組織された。 多く見物客冷やかし半分にやって来たが、それでも新しい傾向アート存在対す関心巻き起こり落選展には通常のサロンよりも多く見物客訪れた再度落選展求めアーティストたちの請願は、1867年、そして1872年にも拒否された。 1873年後半に、モネルノワールピサロシスレーセザンヌベルト・モリゾエドガー・ドガなどは「画家彫刻家版画家等の芸術家共同出資会社」を組織し自分たちの作品の独自の展覧会企画した。この会社メンバーには、サロンへの出展拒否することが期待された。会社はその最初展覧会に、他の進歩的アーティストもたくさん招き入れた。その中には年長ウジェーヌ・ブーダンもいた。数年前彼の作品見てモネ戸外制作踏み切ったのであるマネや、モネたちに影響を与えた画家であるヨハン・ヨンキントは、出展見合わせた合計30人芸術家が、1874年4月写真家ナダールスタジオで開かれた最初展覧会出展した展覧会は、後に第1回印象派展呼ばれるうになる当時この展覧会社会に全く受け入れられず、批判的な反応がいろいろあった。なかでもモネセザンヌは、いちばん激し攻撃受けた評論家喜劇作家ルイ・ルロワ風刺新聞「ル・シャリヴァリ(フランス語版)」に酷評書いたその中でモネの絵の『印象・日の出』というタイトルかこつけて、この画家たちを「印象派」と呼んだので、このグループはこの名で知られるようになった嘲笑の意味含めて印象派展覧会」とタイトルをつけた記事で、ルロワモネ絵画せいぜいスケッチであり、完成した作品とは言えないと断じた。見物客どうしの会話のかたちを借りてルロワはこう書いている。 印象かぁー。確かにわしもそう思った。わしも印象受けたんだから。つまり、その印象描かれているというわけだなぁー。だが、何という放漫何といういい加減さだ! この海の絵よりも作りかけの壁紙の方が、まだよく出来ている位だ。 ところが、「印象派」という言葉人々からは好感をもって迎えられアーティストたち自身もこの言葉受け入れたスタイル気性異なアーティスト同士も、独立反抗精神でまず合流したのである。彼らのメンバーはときどき入れ替わったが、1874年から1886年まで一緒に全8回の展覧会開いた。自由で気まま筆使い印象派スタイルは、モダンライフの同義語になったモネシスレーモリゾピサロは、一貫して自由気まま日光色彩アート追求し、「最も純粋な印象派評価された。ドガは、色彩よりも描画優先信じ戸外での制作活動にはそれほど価値を見出さなかったので、これらにかなり否定的であったセザンヌ初期印象派展には出展したが、1877年第3回最後に印象派から離れ画風印象派とは異な独自のものへと変化していった。ルノワール1880年代一時的に印象派から離れその後印象派考え方に完全に賛同することはなかった。エドゥアール・マネ印象派内部では指導者期待されており、他のメンバーから印象派展への出展要請されていたが、色として黒を自由に使うということは止めず印象派展出展することは一度もなかった。彼はサロン出品し続け、『スペインの歌手』は1861年には第2位メダル獲得した。他の画家たちには「(世間の評価がそこで決まる)サロンこそが真の戦場だ」と説いた第4回印象派展開かれた1879年頃から、グループ中心である画家の中で、(1870年普仏戦争亡くなったバジール除いてセザンヌさらにはルノワールシスレーモネのように、サロン出展するために、グループ展に出展するのをやめる動き出てきた。グループ内部にも意見不一致生じた例えアルマン・ギヨマン会員資格についてピサロセザンヌはこれを擁護したが、モネドガ彼に資格がないと反対した。ドガ1879年展覧会メアリー・カサット招待したが、 同時に初期印象派展出展していたリュドヴィック=ナポレオン・ルピックや、主にサロン出展していたジャン=フランソワ・ラファエリなど、印象派とは画風がやや異な写実主義者も加えたい主張した。これに対してモネ1880年印象派を「絵の良し悪し抜きにして先着順ドア開けている」と非難したグループ1886年新印象派ジョルジュ・スーラポール・シニャック招待する件で分裂した。この回には象徴派オディロン・ルドンなど、印象派活動とは無縁な画家出展した結果的に印象派展はこの回が最後となった全部で8回の印象派展欠かさず出展したのはピサロだけである。 個々アーティスト印象派展金銭的に報いられることはほとんどなかったが、作品次第人々受容され支持されるようになった。これについては、作品人々の眼に触れさせ、ロンドンニューヨークで展覧会を開くなどした仲買人ポール・デュラン=リュエル大きく貢献した1899年シスレー貧困のうちに亡くなったが、ルノワール1879年サロン大成功収めたモネ1880年代ピサロ1890年代初期には、経済的に安定した生活を送れようになった。この時までには印象派絵画技法は、だいぶ薄められた形ではあったが、サロンでも当たり前になったのである

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