『草上の昼食』
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「エドゥアール・マネ」の記事における「『草上の昼食』」の解説
マネは、1863年のサロンに応募したが、落選した。この年のサロンの審査は例年に比べ非常に厳しく、落選者の不満が高まった。これを懸念したナポレオン3世が、サロンと並行して、サロン落選作で構成する落選展を開催することを命じた。マネの『水浴』(後に『草上の昼食』と改題)、『マホの衣装を着けた若者』、『エスパダの衣装を着けたヴィクトリーヌ・ムーラン』も落選展に展示された。ところが、特に『草上の昼食』は、批評家たちから酷評と嘲笑を浴び、一大スキャンダルとなった。当時、裸婦を描くこと自体は珍しいものではなく、実際、この年のサロンで賞賛されたアレクサンドル・カバネルの『ヴィーナスの誕生』は、官能的な裸婦を描いているが、現実ではなく神話の世界を描いたものであるため、良識に反することはなかった。また、マネが発想源としたティツィアーノの『田園の奏楽』でも、裸のニンフと着衣の男性が描かれている。しかし、『草上の昼食』の裸婦は、パリの現実の女性が着衣の男性と談笑するというもので、風紀に反すると考えられた。裸婦の周りに、果物などの食べ物や、脱いだ後の流行のドレスが描かれることによって、裸婦がニンフなどではなく現実の女性であることが露骨に強調されることになった。当時の鑑賞者は、この作品から、社会の陰の部分である売春の世界を読み取った。批評家エルネスト・シェノー(フランス語版)は、「デッサンと遠近法を学べば、マネも才能を手に入れることができるだろう」と、描き方の稚拙さを指摘するとともに、「ベレー帽をかぶり短いコートを着た学生たちにかこまれ、葉の影しか身にまとっていない娘を木々の下に座らせている絵が、申し分なく清純な作品だとは思えない。[中略]彼は俗悪な趣味の持ち主だ。」と、テーマ自体を厳しく批判した。 1864年、バティニョール大通り34番地に引っ越した。マネは、自由奔放な私生活を送っており、以前から、イタリアン大通りのカフェ・トルトーニ(フランス語版)や、カフェ・ド・バードに足繁く通っていたが、バティニョール大通りに移った頃から、カフェ・ゲルボワに足を運ぶようになったと思われる。カフェ・ゲルボワのマネの周りには、次第に美術家や文学者が集まり始めた。その中には、詩人のザカリー・アストリュク、中学時代・クチュール画塾時代からの友人アントナン・プルースト、写真家ナダール、批評家ルイ・エドモン・デュランティ、テオドール・デュレ、フィリップ・ビュルティ、画家アンリ・ファンタン=ラトゥール、アントワーヌ・ギユメ、版画家マルスラン・デブータンなどがいた。 作家のアルマン・シルヴェストル(フランス語版)は、カフェ・ゲルボワでのマネについて、次のように描写している。 この革命家[中略]は完璧な紳士のマナーをもっていた。しばしば派手なズボンをはき、ショート・ジャケットを着て、つばの平らな帽子を後頭部にかぶり、いつも汚れひとつないスエードの手袋をはめているので、マネはボヘミアンのようには見えなかったし、実際、彼にはボヘミアンらしいところは少しもなかったのである。彼は一種のダンディーだった。[中略]彼はとても寛大で親切であったけれども、会話ではわざと皮肉でしばしば毒をふくんでいた。ひとを打ちのめす痛烈な言い回しをすばらしく流暢にあやつった。しかし同時に彼の言葉づかいは好意に満ちていて、そこに込められた考えはまったく正しかった。 — アルマン・シルヴェストル、『回想の国で』(1892年) 『マホの衣装を着けた若者(フランス語版)』1863年。油彩、キャンバス、188 × 124.8 cm。メトロポリタン美術館。1863年サロン落選、落選展展示。 『草上の昼食』(当初の題は『水浴』)1863年。油彩、キャンバス、207 × 265 cm。オルセー美術館。1863年サロン落選、落選展展示。 『エスパダの衣装を着けたヴィクトリーヌ・ムーラン(フランス語版)』1862年。油彩、キャンバス、165.1 × 127.6 cm。メトロポリタン美術館。1863年サロン落選、落選展展示。 『死せるキリストと天使たち』1864年。油彩、キャンバス、179.4 × 149.9 cm。メトロポリタン美術館。1864年サロン入選。
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