『草の花』の執筆
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1953年(昭和28年)3月末に東京療養所を退院した福永は堀辰雄全集の編纂委員の一人に命じられたため、この年の夏休みに妻と共に、長野県の追分にある油屋に滞在している。ここでは、堀家で中村真一郎、神西清、丸岡明らと会議を行う一方で、夜には机に向い、『草の花』の執筆を行っていた。夏の間に序章「冬」を書き上げ、東京へ戻ってのちに執筆に入った「第一の手帳」も草稿となる「慰霊歌」があったため比較的楽に書き進められたが、「第二の手帳」の執筆には大いに難航した。12月の末にようやく400枚で脱稿し、29日に編集者へ原稿を渡し「ほっと息を吐いた」という。 また福永は『風土』完成後には「慰霊歌」をどのように書き直せばよいのか「私にはもうすっかり分っていたように思う。その三年の間に、私は作品を遠望できる地点まで離れていて、謂わば汐見茂思を他人として見ることが出来るようになっていた」と記している。こうした変化について細川正義は、「「死者の眼」に搦め取られて死と生の狭間で脅える人間像への関心から、一歩脱却した形で生の方向へ一歩踏み出した問いかけを獲得していることが窺える」「死が脅えの対象でなく、間近に拭い去れないものとして受け入れた時獲得し得た透明さと真実性を基底に見据えながら愛の可能性を究明した」と評している。 『草の花』は翌1954年(昭和29年)4月15日、新潮社書き下ろし叢書の一冊として刊行された。時に福永は36歳であった。
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