「慰霊歌」の執筆
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福永は1947年(昭和22年)の秋から1953年(昭和28年)3月末まで、結核のため東京都北多摩郡清瀬村の東京療養所で、5年余りに渡る入院生活を送っている。1949年(昭和24年)には腸結核、咽頭結核の再発に見舞われたほか、副睾丸結核手術を受けてもおり、長い間の絶対安静を余儀なくされていた。こうした中で福永は自殺の観念に囚われるようになり、同年の1月1日の日記には「思ふこと、死、自殺、運命的な愛」、翌2日には「自殺を思ふ、孤独感痛烈」と書き記している。 そして福永はこの年、作中の汐見同様、「自殺として手術を受けた」女性の死に遭遇してもいる。 朝、吉山さんが死んだといふ悪いニュースを聞く。昨日の肺摘手術の結果。(中略)手術中に医師が止めようと言つたのに無理に続行してもらつたとのこと。某医師は個人的にこの手術に反対でさう忠告したさうだが、きかなかつたとのこと。何よりも癒るためでなく、合法的な自殺として手術を受けたらしいこと。栄さんによれば虚勢を張つてゐたのだからとめることが出来たに違ひないと。死を覚悟しそれを準備してゐた心。 — 福永武彦「四九年日記」1949年3月23日付 この1949年(昭和24年)12月10日から翌1950年(昭和25年)5月10日にかけて、福永は『草の花』の原型となる中編小説「慰霊歌」を執筆し、200字詰めの原稿用紙にして374枚を書き上げた。執筆時は固いベッドの上に横になり、「私は左手に原稿用紙を恐らく下敷か何かの上に重ねて持ち、それを枕の横のところで支え、右手に万年筆を握り、身体を左向きにして少しずつ書き進めていたに違いない」とのちに述懐している。身体の状態は思わしくなく、この「不自然な恰好」での無理な執筆のために背中に水が溜まり、医者から厳重な警告を受けたこともあった。当時の自身の心境を、福永は次のように記している。 私は絶望的であり、ひたすら過去を見詰め、そこに私の生きた痕跡を、或いは生きることの意味を、見出そうとしていた。それとも、こう言えばいいだろうか。――藤木忍が死んでから十年以上の歳月が過ぎ去っていながら、その死は常に私の負目のようなものになっていた。私は彼について書かなければならない、死者をこの世に引きとめておく唯一の方法は彼を表現し定著しその姿をもう一度甦らせることである。私が作中に書いたように、死者は生者たちの記憶と共になお生きており、生者たちの死と共に決定的な死を死ぬのである。死者について書くことは生者の義務に他ならない。 — 福永武彦『「草の花」遠望』 この記述は『草の花』中の汐見の言葉、「生者は、必ずや死者の記憶を常に新たにし、死者と共に生きなければならない」「僕の死は、僕にとっての世界の終りであると共に、僕の裡なる記憶と共に藤木をもまた殺すだろう。僕の死と共に藤木は二度目の死を死ぬだろう」と類似しており、汐見の思いは作者福永のものであったと見做すことができる。 こうして書かれた「慰霊歌」は全体が4章に分かれ、構成は『草の花』の「第一の手帳」と同様となっているほか、全体が一人称の「僕」の語りにより統一されている。福永はこの作品を「冗漫な箇所が多くて我ながら下手である」とし、原稿を『群像』に送ったが採用されなかったことを「かえって有難かったと思っている。こんな荒削りの中篇がもし活字になっていたら、私は再起不能なまでに叩かれただろう」としている。 「慰霊歌」を脱稿してのち、病状が悪化したため福永はしばらく執筆を行うことができなかったが、1950年(昭和25年)秋になって健康をやや恢復して『風土』の執筆に着手し、これを完成させてのちに『草の花』の執筆に入った。
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