「憑依」という用語と分類の恣意性とは? わかりやすく解説

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「憑依」という用語と分類の恣意性

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 00:04 UTC 版)

憑依」の記事における「「憑依」という用語と分類の恣意性」の解説

ただし、学術的な研究が進むにつれて当初明確な輪郭をもっているように思われた「憑依」という概念が、実は何が憑依」で何が憑依」でないか線引き自体困難な問題として議論された。宗教学者ミルチャ・エリアーデは「脱魂」であると分類もうけたこうした研究が進む中で、憑依評価する側の価値判断政治的判断色濃く反映されバイアスかかってしまっている、やっかいな概念である、ということ次第認識されるようになってきた。 例え大和言葉の「つく」という言葉ならば、「今日ツイている」のように幸運などの良い意味用いることができる。ところが「憑依」は否定的な表現である。英語の be obsessedbe possessed などは否定的な表現であり、「憑依」も否定的に用いられる。。現実起きていることはほぼ類似の現象であっても書き手の側の価値判断政治的判断によってそれを呼ぶ表現恣意的選ばれてしまい、別の解釈もたらす指摘する研究者もいる。 例え聖書には次のようなくだりがある。 イエスバプテスマを受けると、すぐにから上がられた。すると、天が開け、神の御霊のように自分の上下ってくるのをご覧になった。また天から声があって言った。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である(マタイによる福音書 3.16) 祈りが終わると、彼らが集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊満たされて大胆に神の言葉語りだした。(使徒行伝 4.31) このような箇所翻訳される場合肯定的に表現され、「憑依」を暗示するような訳語使われず、このような箇所は「憑依」に分類されてこなかったのである一方同じく聖書には次のようなくだりがある。 イエス向こう岸ガダラ人の地に着かれると、悪霊取りつかれた者がふたり、墓場から出てきてイエスところにやって来た。二人は非常に凶暴で(中略)、突然叫んだ。「神の子かまわないでくれ。まだ時ではないのに、ここにきて、我々を苦しめるのか」。はるか離れたところで多く豚の群れがえさをあさっていた。そこで悪霊たちはイエス願って言った。「もし我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」。イエスが「行けと言われると、悪霊どもは二人から出て豚の中に入った。すると豚の群れは崖から海へなだれこみ、水の中死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町に行き悪霊取りつかれた者のことなど一切知らせた。(マタイによる福音書 8.28-33) これなどは「取りつかれた」などの「憑依」を暗示する用語・訳語選ばれそういう位置づけになっている一方沖縄ユタ呼ばれる人がカミダーリィの時期回想した体験談次のようなものがある。 そして神様に歩かされて、夜中3時になるといつもウタキまで歩かされて、そうすると、天が開いたように光がさして、昔の(琉球王朝の)お役人のような立派な着物着たおじいさん降りて来られて「わたしの可愛いクァンマガ(子孫)」とお話をされる。 この体験談聖書引用比較してみると、明らかにイエス自身事跡示したマタイによる福音書3.16以下のくだりと酷似している。まともに判断すればマタイによる福音書3.16のくだりと同じ位置づけ研究されてもようさそうなはずのものなのだが、ところが学術世界ではユタと言えばカミダーリィ(神がかり)。だからシャーマン巫者。だから“憑依”される人物だ」といったような冷静に検討すれば、あまり正しとは言えない理屈分類されるようなことが行われてきたのであるキリスト教徒なかには、「キリスト教徒以外の異教徒はすべてサタンによって欺かれている」などと言う人もおり、キリスト教の外にあるイタコユタなどは“悪霊憑かれた者”に分類し、それに対してキリスト教中にある聖霊に関しては「憑かれる」とは表現しないという指摘もある。すなわち、こうした表現や用語の選定段階には、聖書編者たちやキリスト教徒たちの価値判断解釈埋め込まれしまっているのである学者らがこうしたキリスト教徒の「信仰自体批判する筋合いにはないが、問題なのは、こうしたキリスト教信仰による分類法が、「学術研究」とされてきたものの中にまでも実は深く入り込み研究領域恣意的分けられてしまうようなことが行われてきたことにある。つまり、「ついた」「神がかった」などという表現があると「憑依」や「シャーマニズム」に分類して宗教人類学宗教民俗学守備範囲だとし研究されたのに、「(イエス・キリストは)天が開け神の御霊のように自分の上下ってくるのをご覧になった」という記述や「高僧に仏の示現があった」「見仏体験得た」という記述は、別扱いになってしまい、キリスト教研究仏教研究の領域行われるということ平然と行われてきてしまったのである

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