画塾時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 06:30 UTC 版)
モネは、パリで絵の勉強をしたいと考えるようになったが、父は強く反対した。しかし、モネがカリカチュアで稼いだ貯金2,000フランでパリに行きたいと伝えると、父はこれに驚いてやむを得ず許可し、1859年4月、パリに出ることとなった。当初、ブーダンの師であったコンスタン・トロワイヨンのもとを訪れ、ルーヴル美術館で模写をしてデッサンを学ぶこと、トマ・クチュールのアトリエに入ることを勧められた。しかしモネは、そうしたアカデミックな勉強を拒否し、1860年に、より自由なアカデミー・シュイスに入学した。ここでカミーユ・ピサロらと知り合った。 1861年、徴兵を受け、アフリカ方面の連隊に入隊し、秋からアルジェリアで兵役を務めたが、1862年、病気(チフス)のため6か月の休暇を得て、フランスに帰国した。モネはのちに、アルジェリアでの経験について「あの地で受けた光と色彩の印象。それはずっと後になるまで明確な形を取らなかったが、私の来るべき探求の萌芽は、すでにあそこにあったのだ」と回想している。 同年(1862年)夏、ル・アーヴルに戻った際、オランダの画家ヨハン・ヨンキントと知り合った。ヨンキント、ブーダン、モネは、温かい友情で結ばれた。モネはのちに「そのときから彼は私の真の師となった。私の眼の教育の仕上げをしてくれたのは彼なのだ」と、ヨンキントからの影響について語っている。兵役は、叔母が納付金を支払って残りの期間を免除された。叔母や父は、ブーダンやヨンキントとの交際による悪影響を懸念していた。父は、パリで有名な師匠の訓練を受けること、好き放題するようなら仕送りを打ち切ることを言い渡したうえ、モネをパリに送り出すこととした。 同年(1862年)11月、パリに着くと、後見人として指定された親戚筋の画家オーギュスト・トゥールムーシュの勧めを受けて、シャルル・グレールのアトリエに入ることとした。ここでアルフレッド・シスレー、フレデリック・バジール、ピエール=オーギュスト・ルノワールらと知り合った。グレール自身は、理想化された様式を重んじるアカデミズムの画家であったが、当時の画家のアトリエの中では比較的自由で、グレールが週に1度やってきて生徒の絵を直すほかは、生徒はモデルを使って自由に描くことが許されていた。費用が安いこともあり、アカデミックな美術教育に飽き足らない画家の卵たちが彼のアトリエに集まっていた。もっとも、グレールの指導は、モデルをありのまま描いてしまっては醜いから、古代美術を念頭に様式化して描くことというものであり、自然をありのまま描くことというブーダンやヨンキントの教えに心服していたモネは、グレールに不信感を持った。教室には、家族を失望させない程度に定期的に顔を出す程度であった。モネは、アカデミー・シュイスの仲間とグレールのアトリエの仲間を結びつける役割を果たし、のちの印象派グループの中心メンバーを形成していくことになった。1863年にはナポレオン3世が開かせた落選展で、エドゥアール・マネの『草上の昼食』がスキャンダルを巻き起こしており、モネもこれを見たと思われる。その年の秋ごろ、グレールの病気のためアトリエの閉鎖が検討されることになり、モネ、バジール、ルノワール、シスレーはアトリエを離れた。モネは、ほかの3人を誘ってフォンテーヌブローの森の外れのシャイイ=アン=ビエールを訪れ、森の中での制作を教え、また森で出会ったバルビゾン派の巨匠たちから助言を受けた。モネは特にジャン=フランソワ・ミレーを尊敬していたが、気難しいミレーに実際に話しかけることはできなかった。 1864年、モネは、バジールとともにノルマンディー地方のルーアン、オンフルール、サン=タドレス(フランス語版)を訪れた。一足先にパリに帰ったバジールに対して、オンフルールに残ったモネは「ここは素晴らしいよ。毎日毎日、何かしら昨日よりもっと美しいものが見つかる」と、興奮した手紙を送っている。同年末にパリに戻ると、フュルスタンベール通り(フランス語版)のバジールのアトリエで一緒に制作をするようになった。バジールが描いた『フュルスタンベール通りのアトリエ(フランス語版)』の画中には、壁に『並木道 (サン=シメオン農場の道)』、『オンフルールの海辺』などモネの絵がかかっているのを見ることができる。
※この「画塾時代」の解説は、「クロード・モネ」の解説の一部です。
「画塾時代」を含む「クロード・モネ」の記事については、「クロード・モネ」の概要を参照ください。
画塾時代(1860年代初頭)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 06:28 UTC 版)
「ピエール=オーギュスト・ルノワール」の記事における「画塾時代(1860年代初頭)」の解説
ルノワールは、画家になることを決意し、1861年11月、シャルル・グレールのアトリエ(画塾)に入った。ここでクロード・モネ、アルフレッド・シスレー、フレデリック・バジールら、後の印象派の画家たちと知り合った。また、近くにアトリエを持っていたアンリ・ファンタン=ラトゥールとも知り合った。グレール自身は、保守的なアカデミズムの画家であったが、生徒たちに、安い費用で、モデルを使って自由に描くことを許していたので、様々な傾向の画学生が集まっていた。ルノワールは、後に、グレールは「弟子にとって何の助けにもなってくれなかった」が、「弟子たちに思うようにさせる」という長所はあったと振り返っている。グレールが、画塾で制作中のルノワールの色遣いを見て、「君、絵具を引っかき回すのが、楽しいんだろうね。」と言うと、ルノワールが「もちろんです。楽しくなければやりません。」と応えたというエピソードが知られている。グレールの保守的な指導に飽き足らない点で、モネやルノワールは共感を深めていった。もっとも、ルーヴル美術館を毛嫌いするモネと異なり、ルノワールは、友人アンリ・ファンタン=ラトゥールとともにルーヴルに行き、18世紀フランスの画家たちを好んで研究した。 また、1862年4月にはエコール・デ・ボザール(官立美術学校)にも入学し、古典的なデッサン教育も並行して受けた。ここでは、夜間のデッサンと解剖学の授業に出席していたが、油彩画の習作をクラスに持って行ったところ、教師シニョルから、赤い色の使い方について批判され、「もう1人のドラクロワになったりしないよう気を付けることだ!」と警告されたという。当時、豊かな色彩を用いるドラクロワは、デッサンを重視する新古典主義が支配するアカデミーから排撃されていた。エコール・デ・ボザールで行われた1863年の構図の試験では、受験者12人中9番、1864年の彫刻とデッサンの試験では、106人中10番という成績を残している。 1863年には、バジール、モネ、シスレーとともにシャイイ=アン=ビエールに行き、フォンテーヌブローの森で写生している。ルノワールが戸外で制作していると、義足の男が現れ、「デッサンは悪くないが、一体どうしてこんなに黒く塗りつぶしてしまうんだね」と評したという。この男は、バルビゾン派の画家ナルシス・ヴィルジル・ディアズ・ド・ラ・ペーニャであり、その後、ディアズは、経済的に苦しいルノワールのために画材代の支援や助言をするようになり、ルノワールもディアズを尊敬するようになった。この年、グレールは、健康上・財政上の理由で画塾を閉鎖することとなった。
※この「画塾時代(1860年代初頭)」の解説は、「ピエール=オーギュスト・ルノワール」の解説の一部です。
「画塾時代(1860年代初頭)」を含む「ピエール=オーギュスト・ルノワール」の記事については、「ピエール=オーギュスト・ルノワール」の概要を参照ください。
- 画塾時代のページへのリンク