フュルスタンベール通りのアトリエ
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「フレデリック・バジール」の記事における「フュルスタンベール通りのアトリエ」の解説
1864年末、バジールは、フュルスタンベール通り(フランス語版)に構えたアトリエにモネを誘い、一緒に制作するようになった。その冬、モネとバジールは、バジールの親戚ルジョーヌの家を頻繁に訪れた。ここで、アンリ・ファンタン=ラトゥール、シャルル・ボードレール、ジュール・バルベー・ドールヴィイ、ナダール、ガンベッタ、ヴィクトール・マッセ、エドモン・メートルらと出会った。中でもメートルはバジールの親友になった。バジールはリヒャルト・ワーグナーのファンで、その点でもメートルと意気投合した。 1865年春、モネは再びシャイイに赴き、大作『草上の昼食』の制作を始め、バジールに、人物のためのモデルになってほしいと言って来るように誘った。その夏、バジールはようやくシャイイに着いたが、着いてみると、モネは、事故でけがをし、宿のベッドから離れられない状態であった。バジールは、医学の知識を生かし、重りや毛布を使ってモネの痛みが和らぐようにしてやった。そして、その様子を絵に描いている。結局、モネは、バジールをモデルに使って『草上の昼食』を仕上げた。一方、バジールが制作した『シャイイの風景』は、彼らの先輩に当たるバルビゾン派に近い、静止した自然を描いたものとなっている。 バジールは、1866年のサロンに、『ピアノを弾く少女』と『魚の静物』の2点を提出した。『ピアノを弾く少女』はバジールがあえて選んだ現代的主題であり、彼は、両親に「現代を選んだのは、僕が一番よく理解している時代だからだし、今の人々にとって最も生き生きとしていると感じられる時代だからですが、多分そのせいで落選するでしょう。」と書いている。そのため、落選を恐れて、同時に『魚の静物』を出すことにした。また、続けて、「応募者の数を考えると、私は落選するのではないかと非常に恐れています。明日にはそれは決定するでしょう。もし落選したら、落選展を開催する請願書に両手で署名するつもりです。」と書き、不安を表している。結局、この年のサロンは、審査委員にジャン=バティスト・カミーユ・コローやシャルル=フランソワ・ドービニーが入ったため、バジールや仲間の画家の多くが入選した。それでも、予想どおり、『ピアノを弾く少女』は落選し、本人が余り気に入っていなかった静物のみが入選した。 『フュルスタンベール通りのアトリエ(フランス語版)』1865年。油彩、キャンバス、80 × 65 cm。ファーブル美術館(モンペリエ)。 『病床のモネ』1865年。油彩、キャンバス、47 × 62 cm。オルセー美術館。 『シャイイの風景』1865年。油彩、キャンバス、81 × 100.3 cm。シカゴ美術館。 『自画像』1865-66年。油彩、キャンバス、108.9 × 71.1 cm。シカゴ美術館。 『魚の静物』1866年。油彩、キャンバス、63.5 × 81.9 cm。デトロイト美術館。
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