出生、画塾時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/05 00:43 UTC 版)
「フレデリック・バジール」の記事における「出生、画塾時代」の解説
フレデリック・バジールは、1841年、南仏ラングドック=ルシヨン地域圏・エロー県のモンペリエで、裕福なプロテスタント中産階級の家庭に生まれた。少年時代、彼は、ウジェーヌ・ドラクロワの『アルジェの女たち』や『ライオンの穴の中のダニエル』に惹かれた。18歳の時、親から、医学を同時に勉強することという条件付きで、絵の勉強をすることを許され、医学部に進学した。 1862年末、バジールは、パリに出て、シャルル・グレールの画塾に入った。ここに入塾したのは、そこで学んでいたモンペリエ出身のカステルノーに勧められたからと思われる。その頃、クロード・モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレーもグレールの画塾に入り、彼らは親交を深めた。バジールとモネは、1863年の復活祭の期間、フォンテーヌブローの森近くのシャイイ=アン=ビエールに写生に行った。バジールは、親への手紙で、モネを「画家の卵の中で一番の友達」と呼び、「フォンテーヌブローの森のそばの小さな村シャイイで1週間過ごしました。ル・アーヴル出身で、風景画がとてもうまい友達のモネと一緒でしたが、彼はとても有益な助言をいくつもしてくれました。」と書いている。また、ルーヴル美術館でルーベンスやティントレットの模写をした。 この頃、バジールは、従兄弟のルジョーヌの家に集まっていた芸術家たちの中で、ポール・セザンヌと知り合った。そして、セザンヌを通じて、同じアカデミー・シュイスで勉強していたカミーユ・ピサロやアルマン・ギヨマンとも知り合った。バジールは、セザンヌをルノワールに紹介した。こうして、バジールは、モネとともに、グレール画塾のメンバーとアカデミー・シュイスのメンバーとを結びつける役割を果たした。 1863年の夏、モンペリエで過ごした後、パリに戻ると、グレールの病気のために画塾の閉鎖が検討されていることを知らされた。バジールは、両親に、学生たちが非常に悲しんでいると手紙で書いている。 1864年5月には、モネとともに、ノルマンディーのルーアン、オンフルール、サン=タドレスに滞在し、制作した。オンフルールで、モネの敬愛する先輩風景画家、ウジェーヌ・ブーダンとヨハン・ヨンキントに出会った。バジールは、両親に、次のような手紙を書いている。 オンフルールに着いてすぐに、風景画のモチーフを探しに行きました。……こんなにも青々と茂った牧草や、こんなにも美しい木々は他の所にはありません。海、というより河口で広がっていくセーヌ川は、緑の塊に快い水平線を与えています。……あと3年か4年絵を続けて、自分で満足が行くようになりたいと思っています。間もなくパリに戻って大嫌いな医学に打ち込まなくてはいけません。ますます医学が嫌いになっていきます。 バジールは先にパリに帰ったが、オンフルールに残ったモネは、バジールに、この地で制作する喜びを手紙で伝えている。バジールは、同年夏、モンペリエ郊外の村で、従姉妹のテレーズ (Thérèse des Hours) をモデルに『ピンクのドレス』を制作した。同年秋、医学の試験に落第し、モンペリエに帰省すると、両親は、とうとう絵を専門に勉強することを許した。 『ピンクのドレス(フランス語版)』1864年。油彩、キャンバス、148 × 110 cm。オルセー美術館。
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