画壇との交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 01:09 UTC 版)
1930年にはアンドレ・ブルトンの『超現実主義と絵画』を翻訳。本書は日本における本格的なシュルレアリスムの最初の文献として美術家に広く読まれ、シュルレアリスムの美術界への波及に大きな役割を果す。これにより瀧口は日本におけるシュルレアリスムの権威として美術批評などで徐々に名を広めていくことになる。 1931年、慶應義塾大学英文科卒業。 翌年、PCL映画製作所(現在の東宝)に入社。日本で初のスクリプター(記録係)となり、数年間一労働者として働く。 1933年に山中散生の企画・開催した巴里東京新興美術展にてはじめてエルンスト、タンギー、ミロを見た。 1935年、妻・綾子 と結婚。 1936年 には瀧口修造が中心となって難波田龍起、末松正樹、大塚耕二らとともにアヴァンギャルド芸術家クラブを結成した。 1937年 にアンドレ・ブルトン、ポール・エリュアール、ジョルジュ・ユニエらを通じ、山中散生とともに企画した「海外超現実主義作品展」を東京で開催(のち京都・大阪・名古屋・福井を巡回)、 阿部芳文と詩画集『妖精の距離』を発表した。
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