画学校時代から中学教師時代まで
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「辻永」の記事における「画学校時代から中学教師時代まで」の解説
1901年(明治34年)に東京美術学校油画科へ仮入学した。このときの同級生のひとりに森田亀之助らがおり、また同科には和田三造、山下新太郎、青木繁、熊谷守一が在籍していた。翌1902年(明治35年)に本科1年に進学し、はじめ岡田三郎助に師事。1903年(明治36年)になると同校画学生だった熊谷守一、和田三造、柳敬助、橋本邦助らと共に東京市下谷区に一戸建てを賃貸し、共同生活を始めている。 1904年(明治37年)9月に開催された第9回白馬会展に風景画を初出品した。翌1905年(明治38年)同展出品作は東京美術学校買い上げとなった。1906年(明治39年)3月、同校本科を卒業し研究科へと進学した。 1906年(明治39年)夏には和田三造の実家福岡県へ出向き、熊本県の阿蘇山や長崎県などを共に旅行している。またこのとき父が佐賀県に赴任しており、同地にて「父の像」「母の像」「残暉」などを描いた。同年12月、師事していた黒田清輝の勧めにより福井県の福井中学校(現福井県立藤島高等学校)に図画教師として任期1年で同地へ移住、赴任した。 1907年(明治40年)末、中学図画教師としての任期を終え福井県から東京へ帰省。この年、3月に父を、9月に兄を失っており、翌1908年(明治41年)8月より渋谷村(現渋谷区)に母、次弟らと共に同居を開始する。弟の光は山羊園として永光舎を開き、永は弟の山羊園で山羊を題材に作品制作を続けた。
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