画壇デビュー
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15歳ごろから父や兄の仕事に興味を示し、見よう見まねで絵を独習、ほどなく「大阪絵画春秋展」に小野小町を描いた絵を出品。その一方で北野恒富、野田九浦らにも私淑して日本画の基礎を学ぶ。私的な友人としての彼らから指導、助言を受けた以外、正式には誰にも師事していない。いくつかの図案競技会に作品を出品したのち、1912年(大正元年)[元号要検証]の第12回巽画会展に「見真似」が、同年10月の第6回文部省美術展覧会(文展)では「宗右エ門町の夕」がそれぞれ入選、弱冠20歳で中央画壇へのデビューを果たす。東京、京都が中心とされていた当時の日本画壇において、大阪からの年若い女性画家の出現は画期的なこととして迎えられ、京都の上村松園、東京の池田蕉園とともに「三都三園」と並び称される。また各方面から多くの制作依頼が寄せられたほか、入門志望の若い女性たちが多数自宅を訪れた。翌1913年(大正2年)にも「祭りのよそおい」で文展に入選し、朝香宮允子内親王、賀陽宮大妃殿下(具体的に誰を指すかは不明)といった皇族からも制作依頼が寄せられたりした ほか、1915年(大正4年)の第13回三越絵画展覧会では、作品が横山大観、竹内栖鳳、北野恒富ら有名画家のそれとともに展示され、さらに同年の第10回文展では「稽古のひま」が兄・御風の「村のわらべ」とともに入選。高い社会的知名度を得る。
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