画塾とサロンとは? わかりやすく解説

画塾とサロン(1860年代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 06:37 UTC 版)

カミーユ・ピサロ」の記事における「画塾とサロン(1860年代)」の解説

ピサロ画家を志すようになり、1855年9月セント・トーマス島去り再びパリ向かった。ちょうどこの時開かれていたパリ万国博覧会では、新古典主義ドミニク・アングルロマン主義ウジェーヌ・ドラクロワ特別室与えられていたが、ピサロは、ジャン=バティスト・カミーユ・コローシャルル=フランソワ・ドービニージャン=フランソワ・ミレーといったバルビゾン派画家や、展覧会審査抗議して個展開いていたギュスターヴ・クールベ注目したピサロは、コロー会い行きアドバイス求めている。 パリでは、アカデミックな画家たち指導受けたがより自由にモデルを描くことが許される画塾アカデミー・シュイスに通うようになった1859年にはクロード・モネが、1861年にはポール・セザンヌアルマン・ギヨマン上京してきて、同様にアカデミー・シュイス学び始めており、ピサロこの頃彼らと知り合った思われるまた、ピサロは、パリ郊外モンモランシーラ・ロッシュ=ギヨン(英語版)に出かけて制作し、フランシスコ・オラー(プエルトリコ出身)、アントワーヌ・ギュメ、デイヴィッド・ヤコブセン(デンマーク出身)など仲間画家一緒に制作することもあった。 1859年サロン・ド・パリに、『モンモランシー風景』が初入選したカタログには、フリッツ・メルビューの兄であるアントン・メルビュー弟子として登録した両親は、彼が経済的に自立できる思って喜んだが、実際には彼は40歳を過ぎるまで仕送りを受け続けることになった実際サロンでは特に注目されるともなく友人ザカリー・アストリュクが、サロン評で、よく描けていると言及した程度であったピサロ両親パリに移住してきたが、その家でブルゴーニュ地方出身農家の娘ジュリー・ヴレーが使用人として働き始めピサロは彼女と関係を持つようになった両親は、身分が低い上にカトリック教徒であるジュリーとの交際反対し、ジュリー解雇した2人の間には、1863年2月20日第1子長男リュシアン・ピサロ生まれたパリ家賃高かったため、ピサロたちはラ・ヴァレンヌ=サン=モールやラ・ヴァレンヌ=サン=ティレール(現サン=モール=デ=フォッセ)で生活することもあった。また、裕福な家の出の画家ルドヴィック・ピエトフランス西部のモンフーコーに持つ所有地に滞在させてもらうこともあった。 1863年サロンには落選しエドゥアール・マネ『草上の昼食』をめぐるスキャンダル有名になる落選展に、ピサロ3点風景画出展した当時作品は、コロー影響強く受けたものであったこの頃モネ通じてシャルル・グレール画塾集まっていたアルフレッド・シスレーフレデリック・バジールピエール=オーギュスト・ルノワール知り合った1864年サロンには、「アントン・メルビューコロー弟子」として応募しマルヌ川のほとり』と『カシャラの道、ラ・ロッシュ=ギヨン』を入選させた。1865年サロンには、審査員ドービニー支持により、『シュヌヴィエール、マルヌ川のほとり』と『水辺』を入選させた。この年1月ピサロの父フレデリック亡くなった1866年サロンには、「アントン・メルビュー弟子」として応募し、『マルヌ川のほとり、冬』を入選させた。この頃セザンヌから友人エミール・ゾラ紹介受けたが、ゾラは、ピサロサロン入選作について次のように評した。 なぜ、あなたはここまで不器用に堅実に自然を描き率直に研究するのか。そう、あなたは冬を選び単純な1本の線を引き、背景には小さな丘と、水平に広がる野原描いた見ていて、少しも楽しいものはない。厳格深刻な絵画真実正義対す極端な配慮激しく強い意志あなたは本当に不器用だ。しかし、私はあなたのような画家を好む。 — エミール・ゾラ、『レヴェヌマン』1866年5月20日 1866年5月18日には、第2子長女ジャンヌ=ラシェル(通称ミネット)が生まれ、生活は更に苦しくなった。1867年サロンには落選したが、1868年サロンにはドービニー支持により『ジャレの丘』と『エルミタージュ』を入選させた。この時期サロン審査委員選び方は毎年のように改編され、審査委員保守的なアカデミー会員占められる年は審査基準保守化するのに対しドービニーコローなどバルビゾン派画家審査委員選ばれると、新古典主義属しない前衛的な画家にも寛容審査となり、画家たち翻弄された。 この頃パリではマネ中心にバジールルノワールドガファンタンラトゥールフェリックス・ブラックモンモネセザンヌといった画家や、ゾラザカリー・アストリュクルイ・エドモン・デュランティテオドール・デュレといった批評家が、バティニョール(英語版地区カフェ・ゲルボワ集まっていて、「バティニョール派」と呼ばれていた。ピサロも、この集まり顔を出したピサログループの中で最年長であり、仲間から尊敬受けていた。無政府主義者政治的な意見過激であったが、人柄温和で人から憎まれることはなかった。 『セント・トーマス島海岸で話をする2人の女』1856年油彩キャンバス、27.7 × 41 cmナショナル・ギャラリー(ロンドン)。 『モンモランシー風景1859年頃。油彩、木、21.5 × 27.2 cmオルセー美術館この頃までPizarroという綴り署名していた。 『シュヌヴィエール、マルヌ川のほとり』1864-65年頃油彩キャンバス、91.5 × 145.5 cmスコットランド国立美術館。 『マルヌ川のほとり、冬』1866年油彩キャンバス、91.8 × 150.2 cmシカゴ美術館。 『ジャレの丘』1867年油彩キャンバス87 × 114.9 cmメトロポリタン美術館ニューヨーク)。

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