画塾とサロン(1860年代)
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「カミーユ・ピサロ」の記事における「画塾とサロン(1860年代)」の解説
ピサロは画家を志すようになり、1855年9月、セント・トーマス島を去り再びパリに向かった。ちょうどこの時開かれていたパリ万国博覧会では、新古典主義のドミニク・アングルとロマン主義のウジェーヌ・ドラクロワが特別室を与えられていたが、ピサロは、ジャン=バティスト・カミーユ・コロー、シャルル=フランソワ・ドービニー、ジャン=フランソワ・ミレーといったバルビゾン派の画家や、展覧会の審査に抗議して個展を開いていたギュスターヴ・クールベに注目した。ピサロは、コローに会いに行きアドバイスを求めている。 パリでは、アカデミックな画家たちの指導も受けたがより自由にモデルを描くことが許される画塾アカデミー・シュイスに通うようになった。1859年にはクロード・モネが、1861年にはポール・セザンヌやアルマン・ギヨマンが上京してきて、同様にアカデミー・シュイスで学び始めており、ピサロはこの頃彼らと知り合ったと思われる。また、ピサロは、パリ郊外のモンモランシーやラ・ロッシュ=ギヨン(英語版)に出かけて制作し、フランシスコ・オラー(プエルトリコ出身)、アントワーヌ・ギュメ、デイヴィッド・ヤコブセン(デンマーク出身)など仲間の画家と一緒に制作することもあった。 1859年のサロン・ド・パリに、『モンモランシーの風景』が初入選した。カタログには、フリッツ・メルビューの兄であるアントン・メルビューの弟子として登録した。両親は、彼が経済的に自立できると思って喜んだが、実際には彼は40歳を過ぎるまで仕送りを受け続けることになった。実際、サロンでは特に注目されることもなく、友人ザカリー・アストリュクが、サロン評で、よく描けていると言及した程度であった。 ピサロの両親もパリに移住してきたが、その家でブルゴーニュ地方出身の農家の娘ジュリー・ヴレーが使用人として働き始め、ピサロは彼女と関係を持つようになった。両親は、身分が低い上にカトリック教徒であるジュリーとの交際に反対し、ジュリーを解雇した。2人の間には、1863年2月20日、第1子(長男)リュシアン・ピサロが生まれた。パリの家賃は高かったため、ピサロたちはラ・ヴァレンヌ=サン=モールやラ・ヴァレンヌ=サン=ティレール(現サン=モール=デ=フォッセ)で生活することもあった。また、裕福な家の出の画家ルドヴィック・ピエトがフランス西部のモンフーコーに持つ所有地に滞在させてもらうこともあった。 1863年のサロンには落選し、エドゥアール・マネの『草上の昼食』をめぐるスキャンダルで有名になる落選展に、ピサロも3点の風景画を出展した。当時の作品は、コローの影響を強く受けたものであった。この頃、モネを通じて、シャルル・グレールの画塾に集まっていたアルフレッド・シスレー、フレデリック・バジール、ピエール=オーギュスト・ルノワールと知り合った。 1864年のサロンには、「アントン・メルビューとコローの弟子」として応募し『マルヌ川のほとり』と『カシャラの道、ラ・ロッシュ=ギヨン』を入選させた。1865年のサロンには、審査員ドービニーの支持により、『シュヌヴィエール、マルヌ川のほとり』と『水辺』を入選させた。この年1月、ピサロの父フレデリックが亡くなった。 1866年のサロンには、「アントン・メルビューの弟子」として応募し、『マルヌ川のほとり、冬』を入選させた。この頃、セザンヌから友人エミール・ゾラの紹介を受けたが、ゾラは、ピサロのサロン入選作について次のように評した。 なぜ、あなたはここまで不器用に、堅実に自然を描き、率直に研究するのか。そう、あなたは冬を選び、単純な1本の線を引き、背景には小さな丘と、水平に広がる野原を描いた。見ていて、少しも楽しいものはない。厳格で深刻な絵画、真実と正義に対する極端な配慮、激しく強い意志。あなたは本当に不器用だ。しかし、私はあなたのような画家を好む。 — エミール・ゾラ、『レヴェヌマン』1866年5月20日 1866年5月18日には、第2子(長女)ジャンヌ=ラシェル(通称ミネット)が生まれ、生活は更に苦しくなった。1867年のサロンには落選したが、1868年のサロンにはドービニーの支持により『ジャレの丘』と『エルミタージュ』を入選させた。この時期、サロンの審査委員の選び方は毎年のように改編され、審査委員が保守的なアカデミー会員で占められる年は審査基準も保守化するのに対し、ドービニーやコローなどバルビゾン派の画家が審査委員に選ばれると、新古典主義に属しない前衛的な画家にも寛容な審査となり、画家たちは翻弄された。 この頃、パリではマネを中心にバジール、ルノワール、ドガ、ファンタン=ラトゥール、フェリックス・ブラックモン、モネ、セザンヌといった画家や、ゾラ、ザカリー・アストリュク、ルイ・エドモン・デュランティ、テオドール・デュレといった批評家が、バティニョール(英語版)地区のカフェ・ゲルボワに集まっていて、「バティニョール派」と呼ばれていた。ピサロも、この集まりに顔を出した。ピサロはグループの中で最年長であり、仲間から尊敬を受けていた。無政府主義者で政治的な意見は過激であったが、人柄は温和で人から憎まれることはなかった。 『セント・トーマス島の海岸で話をする2人の女』1856年。油彩、キャンバス、27.7 × 41 cm。ナショナル・ギャラリー(ロンドン)。 『モンモランシーの風景』1859年頃。油彩、木、21.5 × 27.2 cm。オルセー美術館。この頃までPizarroという綴りで署名していた。 『シュヌヴィエール、マルヌ川のほとり』1864-65年頃。油彩、キャンバス、91.5 × 145.5 cm。スコットランド国立美術館。 『マルヌ川のほとり、冬』1866年。油彩、キャンバス、91.8 × 150.2 cm。シカゴ美術館。 『ジャレの丘』1867年。油彩、キャンバス、87 × 114.9 cm。メトロポリタン美術館(ニューヨーク)。
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