画商ヴィルヘルム・ウーデとは? わかりやすく解説

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画商ヴィルヘルム・ウーデ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 06:21 UTC 版)

セラフィーヌ・ルイ」の記事における「画商ヴィルヘルム・ウーデ」の解説

1907年休暇サンリス滞在していたドイツ人美術評論家美術品蒐集家・画商のヴィルヘルム・ウーデが、ムーイ家で偶然セラフィーヌの絵を見つけた。その力強さに魅せられ、画家の名前を尋ねたところ、「家政婦描いたものだ」と言われ、早速セラフィーヌ会ってこの絵を含む数の絵を買い取った。ウーデは最初の絵を見たとき、「セザンヌ見せたら喜ぶだろうと思った」、「これらの静物画非凡な情念神聖な情熱中世的な激情血肉化したものだ」と書いている。 ウーデは決し裕福ではなかった。ドイツ法律勉強をし、父に家業を継ぐように言われたが、芸術志し1904年渡仏した。パブロ・ピカソジョルジュ・ブラックらの若い画家がまだボヘミアンとしてモンマルトル暮らしていた頃のことである。1907年ピカソモンマルトルキャバレーオ・ラパン・アジル」でウーデに会い、『アヴィニョンの娘たち』を見せた。ウーデはこれをきっかけに、当時まだ無名だった彼らの絵を買い取り紹介したアンリ・ルソーこうした画家一人であり、1908年にウーデがパリ初め開いた展覧会ではピカソブラックルソー作品展示した。ウーデは特に素朴派画家見出したことで知られ(ウーデは「ナイーフ」ではなく「プリミティーフ」という言葉好んだ)、後にルソールイ・ヴィヴァンアンドレ・ボーシャン、カミーユ・ボンボワ(フランス語版)、セラフィーヌ・ルイ生涯と作品紹介する『5人の素朴派巨匠 (Cinq maîtres primitifs)』(1947) を著した1912年、ウーデは妹のアンヌ=マリー・ウーデとともにサンリスに居を構えた。このとき、セラフィーヌ家政婦として雇ったが、これはむしろ彼女に好きなだけ絵を描かせるためであり、画材などを提供し経済的に援助したこの頃、彼女の奇行黒一色装いペチコート重ね穿きショール重ね掛け、絵具塗ったカンカン帽奇妙なものをたくさん詰め込んだ籠など ― は誰の目にも明らかだったが、誰も何も言わなかった。 1914年第一次大戦勃発しドイツ人のウーデはフランス離れざるを得なくなったセラフィーヌの絵を含むコレクション没収され1921年競売かけられた。ウーデは後に買手を捜したが突き止めることができなかった。セラフィーヌドイツ軍による占領中もサンリス暮らし爆撃されるの目の当たりにした。

※この「画商ヴィルヘルム・ウーデ」の解説は、「セラフィーヌ・ルイ」の解説の一部です。
「画商ヴィルヘルム・ウーデ」を含む「セラフィーヌ・ルイ」の記事については、「セラフィーヌ・ルイ」の概要を参照ください。

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