画商ヴィルヘルム・ウーデ
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「セラフィーヌ・ルイ」の記事における「画商ヴィルヘルム・ウーデ」の解説
1907年、休暇でサンリスに滞在していたドイツ人の美術評論家、美術品蒐集家・画商のヴィルヘルム・ウーデが、ムーイ家で偶然セラフィーヌの絵を見つけた。その力強さに魅せられ、画家の名前を尋ねたところ、「家政婦が描いたものだ」と言われ、早速セラフィーヌに会ってこの絵を含む数枚の絵を買い取った。ウーデは最初の絵を見たとき、「セザンヌに見せたら喜ぶだろうと思った」、「これらの静物画は非凡な情念、神聖な情熱、中世的な激情が血肉化したものだ」と書いている。 ウーデは決して裕福ではなかった。ドイツで法律の勉強をし、父に家業を継ぐように言われたが、芸術を志し、1904年に渡仏した。パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラックらの若い画家がまだボヘミアンとしてモンマルトルに暮らしていた頃のことである。1907年、ピカソはモンマルトルのキャバレー「オ・ラパン・アジル」でウーデに会い、『アヴィニョンの娘たち』を見せた。ウーデはこれをきっかけに、当時まだ無名だった彼らの絵を買い取り、紹介した。アンリ・ルソーもこうした画家の一人であり、1908年にウーデがパリで初めて開いた展覧会ではピカソ、ブラック、ルソーの作品を展示した。ウーデは特に素朴派の画家を見出したことで知られ(ウーデは「ナイーフ」ではなく「プリミティーフ」という言葉を好んだ)、後にルソー、ルイ・ヴィヴァン、アンドレ・ボーシャン、カミーユ・ボンボワ(フランス語版)、セラフィーヌ・ルイの生涯と作品を紹介する『5人の素朴派の巨匠 (Cinq maîtres primitifs)』(1947) を著した。 1912年、ウーデは妹のアンヌ=マリー・ウーデとともにサンリスに居を構えた。このとき、セラフィーヌを家政婦として雇ったが、これはむしろ彼女に好きなだけ絵を描かせるためであり、画材などを提供し、経済的に援助した。この頃、彼女の奇行 ― 黒一色の装い、ペチコートの重ね穿きやショールの重ね掛け、絵具を塗ったカンカン帽、奇妙なものをたくさん詰め込んだ籠など ― は誰の目にも明らかだったが、誰も何も言わなかった。 1914年、第一次大戦が勃発し、ドイツ人のウーデはフランスを離れざるを得なくなった。セラフィーヌの絵を含むコレクションは没収され、1921年に競売にかけられた。ウーデは後に買手を捜したが突き止めることができなかった。セラフィーヌはドイツ軍による占領中もサンリスで暮らし、村が爆撃をされるのを目の当たりにした。
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