画壇での活躍と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/09 07:19 UTC 版)
欧州からの帰国後、日本水彩画会会員となり、意欲的に制作に取り組む。以降、二科会、一水会、日展等の公募展に連続出品・連続入選を続ける。 1963年(昭和38年)ロンドンでの日英交歓美術展に出品した「花下の道」はロイヤル・アカデミーの買い上げとなる。 1964年(昭和39年)再度ヨーロッパ各地に渡り美術研修旅行をした。 1979年(昭和54年)ギリシャに渡りエーゲ海やアテネの遺跡の研修をするなど、年齢を重ねても意欲的に美術の研究や制作を続ける。 同年、日本水彩画会の理事長に就任し、画人の指導や画壇の振興に力を尽くす。12月には、兄の内藤智秀(ないとうちしゅう)とともに名誉町民の称号が贈られる。 1982年(昭和57年)余目町総合体育館(現庄内町総合体育館)のステージの緞帳原画を制作。 1985年(昭和60年)春の叙勲で木杯を受ける。 1987年(昭和62年)4月10日東京にて天寿を全うする。享年96歳。 5月に遺族より日本水彩画会へ「内藤賞設定基金」が寄付される。また、秀因の遺言により同年12月に約2000点の作品が余目町に寄贈される。
※この「画壇での活躍と晩年」の解説は、「内藤秀因」の解説の一部です。
「画壇での活躍と晩年」を含む「内藤秀因」の記事については、「内藤秀因」の概要を参照ください。
- 画壇での活躍と晩年のページへのリンク