制作依頼
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外装下段に描かれたヨドクス・フィエト(1439年没)。 外装下段に描かれたエリザベト・ボルルート(1443年没)。 ヨドクス(ヨースとも)・フィエトは裕福な商人で、過去数世代にわたりヘントに影響力を持つ名家の出身だった。ヨドクスの父ニコラース(1412年没)は、フランドル伯ルイ2世の側近だった人物である。最晩年のヨドクスはヘントの最長老の一人であり、大きな政治力を有していた。ヨドクスはパメレとレデベルフの「領主 (Seigneur)」の称号で呼ばれ、ブルゴーニュ公フィリップ3世がもっとも信頼する地方有力者の一人となっていった。1398年ごろにヨドクスは、裕福な名家出身のエリザベト・ボルルートと結婚した。子供に恵まれなかったこの夫妻は教会に多額の寄付をし、前代未聞ともいえる大規模な祭壇画の制作を依頼した。『ヘントの祭壇画』を制作させた理由については諸説あるが、遺産を形あるものとして残したかったためだという説が有力となっている。しかしながら美術史家ティル=ヘルガー・ボルシェルトは「自身の社会的地位を今後も安定させるため」とし、ヨドクスのように野心的な政治家にとっては、自身の社会的名声を誇示することが重要だったという説を唱えた。そして「ヘントのあらゆる教会や聖堂のなかでの最高額とはいえないまでも、少なくとも(シント・バーフ大聖堂の前身である)洗礼者ヨハネ教会への献金額としては他人を凌駕しようという自己顕示欲」だと結論付けている。 ヘントは15世紀を通じて繁栄し続けた都市で、ブルゴーニュ公国からの独立独歩の気風を持つ地方有力者が多く存在した。1430年代初頭に経済的苦境に陥ったブルゴーニュ公フィリップ3世が、ヘントに多額の献金を求めたことがあった。しかしながらヘントの有力者たちの多数派は、これはフィリップ3世からの理不尽な要求であり、経済的にも政治的にもそのような義務はないと突っぱねようとした。このため、ヘントとフィリップ3世との関係は悪化していくことになる。一方でヘントの有力者の中にはフィリップ3世の苦境を助けようとする一派もあったため、フィリップ3世を支持しない多数派との間に不協和音が生じ、ヘントの行政が不安定になっていった。1432年にはこのような権力闘争のなかで、おそらくはフィリップ3世に協力しようとした有力者が多数殺害されている。1433年に政変が起こり、その首謀者たちが処刑されたためにヘントの緊張は最高潮に達した。このような不穏な情勢下でもヨドクスはフィリップ3世への忠誠心を保ち続けていた。洗礼者ヨハネ教会教区参事官というヨドクスの立場は、この教会がヘントで開催されるブルゴーニュ公の公式式典の会場としてよく使用されることが大いに関係していた。『ヘントの祭壇画』が洗礼者ヨハネ教会に奉献された1432年5月6日は、フィリップ3世と公妃イザベル・ド・ポルテュガルとの間に生まれた公子シャルルの洗礼が洗礼者ヨハネ教会で行われた日であり、当時のヨドクスの社会的地位を如実に示しているといえる。 ヨドクスは1410年から1420年にわたって洗礼者ヨハネ教会の教区参事官に任命されていた。これは主礼拝堂柱間の改築費用と、新しい礼拝堂の建築費用を寄付したことと大きな関係がある。完成した礼拝堂はヨドクスにちなんだ名前がつけられ、後に代々のヨドクスの子孫が主催するミサの式場として使用されることとなった。このヨドクス一族の新たな礼拝堂に飾るために、異例なまでに大規模で複雑な構成の多翼祭壇画の制作がフーベルト・ファン・エイクに依頼された。この礼拝堂も教会本体と同じく洗礼者ヨハネに捧げられたものであり、『ヘントの祭壇画』の主たるモチーフとなっている「神の子羊」は、洗礼者ヨハネとイエス・キリストの伝統的象徴でもあった。
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制作依頼
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「ホラティウス兄弟の誓い」の記事における「制作依頼」の解説
1774年ダヴィッドは、医師エラシストラトスがアンティオコスの病の原因はストラトニケへの恋慕であることを突き止めた場面を描いた作品『アンティオコスとストラトニケ』でローマ賞を得た。これによりダヴィッドは、フランス政府の国費留学生としてローマに5年間(1775-1780)滞在することができた。パリに戻るとすぐ展示会が開かれ、ドゥニ・ディドロの賞賛を受けた。その影響から、ルイ16世にルーヴル宮殿への滞在を許されたが、これは画家たちにとって非常に古典的な特権であった。ルーヴルでダヴィッドはペクールと知り合う。ダヴィッドはペクールの娘と結婚した。王は彼に『ホラティウス兄弟の誓い』を注文、そこには国への忠誠、ひいては王への忠誠についての寓話という意図があった。フランス革命に接近するにつれ、彼の絵は、家族や教会よりも国への忠誠をテーマにすることが増えていった。この絵が描かれたのは革命の5年近く前だが、『ホラティウス兄弟の誓い』は時代を象徴する1枚となった。 1789年、ダヴィッドは再び王命で、子の遺体をリクトルが運び込む絵『ブルータス邸に息子たちの遺骸を運ぶ警士たち』を描いた。皮肉なことに、それから間もなく王は、ブルータスの息子と同じく反逆罪を問われ、斬首刑にかけられた。ダヴィッドは国民公会で、ルイ16世の処刑に賛成票を投じている。
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