印象派前史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 06:30 UTC 版)
19世紀半ば、フランスの絵画を支配していたのは、芸術アカデミーとサロン・ド・パリを牙城とするアカデミズム絵画であった。その主流を占める新古典主義は、古代ギリシアにおいて完成された「理想の美」を規範とし、明快で安定した構図を追求した。また、色彩よりも、正確なデッサン(輪郭線)と、陰影による肉付法を重視していた。ジャンルによる価値の優劣も厳然としてあり、歴史画や神話画が高貴なジャンルとされたのに対し、肖像画や風景画は低俗なジャンルとされていた。 これに対して、ロマン主義を代表するウジェーヌ・ドラクロワは、豊かな色彩表現をもって、新古典主義の巨匠ドミニク・アングルに対抗した。その明るい色彩は、のちの印象派に大きな影響を与えた。 その次の世代として、ジャン=バティスト・カミーユ・コローは、「自分の前に見えるものをできるだけ丹念に描き出す」ことを目標に、優れた風景画や人物画を残した。ジャン=フランソワ・ミレーやシャルル=フランソワ・ドービニーといったバルビゾン派の画家たちも、公式の美術界からは軽視されたものの、ロマン派的な情熱を受け継ぎつつ、緻密な自然観察による風景画を生み出し、印象派への道を準備した。その背景には、神話的なテーマを好んだ貴族に代わり、分かりやすい風景画を好む市民階級が成長してきたことがあった。 さらに、1850年代に『オルナンの埋葬』を発表したギュスターヴ・クールベは、表現技法においては伝統的な造形を踏襲していたが、歴史画を上位とする価値観に公然と異を唱え、「眼に見えるものしか描かない」という信念の下、近代的な主題を描いた。その反逆精神は、印象派の若い画家たちを魅了した。 エドゥアール・マネは、1860年代に『草上の昼食』や『オランピア』を発表し、近代パリの頽廃した風俗を赤裸々に描いた。これらの絵は、風紀上の理由で激しく非難されたが、技法面では、伝統的な陰影による肉付法を行わず、平面的な塗り方をしている点も革新的であった。
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