『オランピア』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 07:47 UTC 版)
「エドゥアール・マネ」の記事における「『オランピア』」の解説
1864年のサロンには、『死せるキリストと天使たち』とスペインの闘牛の絵を提出し、入選した。ボードレールは、審査委員であった友人に、マネの作品を良い場所にかけてくれるように依頼したり、マネがゴヤやベラスケスを模倣しているとの批判的意見に反論したりしている。しかし、批判は強く、マネはこれに落胆し、闘牛の絵を切断して二つの部分だけを残した。 マネは、1865年のサロンに、ヴィクトリーヌをモデルとした『オランピア』を出品し、入選した。ところが、この作品は、『草上の昼食』以上のスキャンダルを巻き起こした。裸婦がベッドに寝そべる構図は、ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』を発想源としていたが、マネの作品は、ヴィーナスとは程遠い、パリの娼婦を描くものであることが明らかであった。表題の「オランピア」とは、娼婦(ドゥミ・モンデーヌ)の源氏名として広く使われる名前であったし、黒人のメイドは娼館に多かった。メイドが運ぶ花束は、前夜の客から贈られたものである。『ウルビーノのヴィーナス』に描かれていた犬は忠誠・貞節のシンボルだが、マネが描き入れた黒猫は、性的なイメージを暗示するものと受け止められた。マネは、急速に近代化が進むパリのブルジョワ社会の暗部を赤裸々に描き出したのであった。 なお、この時のサロンで、クロード・モネが海景画2点を提出し、アルファベット順でマネと同じ部屋に並べられていたが、この海景画を見た人が、名前の似たマネの作品と誤解し、マネに祝福の言葉をかけた。マネは、自分の名前を悪用して名を売ろうとする画家がいると思い、憤慨したという。 マネは、『オランピア』への批判に意気消沈し、ブリュッセルにいたボードレールに宛てて、「あなたがここにいてくださったら、と思います。ぼくの上には、罵詈雑言が雨あられと降っています。」と書き送り、ボードレールから励ましを受けている。マネは、物議に辟易し、8月からスペインに旅行をした。マドリードの王立美術館(現プラド美術館)でベラスケスを中心とするスペイン絵画に触れ、友人ファンタン=ラトゥールに、「ベラスケスを観るだけでも旅に出る意味がある。」と書き送っている。また、マネは、「これらの素晴らしい作品の中で最も驚くべき作品、おそらくこれまでに描かれた最も驚くべき絵画作品は、フェリーペ四世の時代のある有名な俳優の肖像と目録に記載されている絵だ。背景が消えている。黒一色の服を着て生き生きとしたこの男を取り囲んでいるのは空気なのだ。」と書いている。この旅の中で、批評家テオドール・デュレと知り合い、親友となった。 『オランピア』1863年。130.5 × 191 cm。オルセー美術館。1865年サロン入選。 『死せる闘牛士(フランス語版)』1864年? 油彩、キャンバス、75.9 ×153.3 cm。ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)。1864年サロン入選作『闘牛のエピソード』をマネ自身が上下に分断した下部。 『キアサージ号とアラバマ号の海戦(英語版)』1864年。油彩、キャンバス、137.8 × 128.9 cm。フィラデルフィア美術館。1872年サロン入選。
※この「『オランピア』」の解説は、「エドゥアール・マネ」の解説の一部です。
「『オランピア』」を含む「エドゥアール・マネ」の記事については、「エドゥアール・マネ」の概要を参照ください。
- 『オランピア』のページへのリンク