印象派展への不参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 07:47 UTC 版)
「エドゥアール・マネ」の記事における「印象派展への不参加」の解説
モネやピサロは、1873年のサロンには応募しなかった。彼らは、この頃から、サロンとは独立したグループ展の開催を計画していた。モネは、この年4月、ピサロへの手紙の中で、「マネ以外は、全ての人が賛同しています。」と書いている。そして、1874年4月、モネ、ピサロ、ルノワール、シスレー、ドガ、ベルト・モリゾなど30人の参加者で第1回グループ展を開いた。後に第1回印象派展と呼ばれる画期的な展覧会であった。マネは、1873年のサロンで『ル・ボン・ボック』が好評だったこともあって、サロンこそ画家の唯一の道であると考え、グループ展を開くことには反対であった。そのため、モネやドガから熱心に参加を勧められたが、断った。参加しない口実として、「コテで描く左官にすぎないようなセザンヌとかかわりをもちたくない」と公言していたという。マネは、同じ1874年のサロンに、『鉄道』を出品している。深い愛情で結ばれた理想的な母子像ではなく、読書に熱中する母親と、退屈そうにサン=ラザール駅の構内を眺める娘を冷ややかに描き出した作品である。マネは、こうした現代都市の人間像に関心を寄せていた点でも、戸外制作による風景画を主にしたモネら印象派とは方向性が違っていた。 ドガは、グループ展に参加しないマネについて、「写実主義のサロンが必要だ。マネはそのことをわかっていない。どう考えても、彼は利口というよりうぬぼれやだ。」と批判した。とはいえ、この年、グループ展の入場者数は30日で延べ約3500人だったのに対し、サロンの入場者数は40日間で延べ50万人を超えていたと見られ、公衆の認知はまだまだサロンが大きな力を持っていた。グループ展は、批評家ルイ・ルロワの風刺的な記事を筆頭に、嘲笑する声が大きく、経済的にも赤字に終わった。マネはグループ展に参加しなかったにもかかわらず、批評家たちは、「使徒マネ氏とその弟子たち」と書くなど、マネを印象派のリーダー格と目していた。 モネとの親しい関係は続き、マネは度々アルジャントゥイユを訪れていた。モネが経済的困窮に陥り、マネに苦境を訴える手紙を送ると、マネは援助に応じた。モネは、小さなボートをアトリエ舟に仕立て、セーヌ川に浮かべて制作したが、その様子をマネが描いている。モネの回想によれば、1874年、マネとルノワールが、アルジャントゥイユのモネの家で、モネの妻カミーユと息子ジャンを一緒に描いたことがあったが(『庭のモネ一家』)、マネは、モネに、「あの青年には才能がない。君は友人なら、絵を諦めるように勧めなさい。」と言ったという。もっとも、マネは、心からルノワールを賞賛していたので、このエピソードは、ルノワールと競い合ったマネの苛立ちを表したものにすぎないとも指摘されている。ところで、マネはこの時初めて戸外にイーゼルを立てて制作したと思われるが、これは、戸外の明るい光の下で自然の印象を正確にとらえようというモネの戸外制作の手法に従ったものであった。マネは、印象派の技法をとりいれた『アルジャントゥイユ』を1875年のサロンに出品した。印象派に対するマネの支持表明といえる。しかし、背景のセーヌ川の描き方が青い壁のようだなどと酷評を浴びた。1874年12月には、マネの弟ウジェーヌ・マネと、ベルト・モリゾが結婚した。1875年頃、エコール・デ・ボザールの教師に対し反乱を起こした若手画家のフラン=ラミやフレデリック・コルデー(フランス語版)が、マネに自由なアトリエを開いてほしいと言って受入れを求めたが、マネは、公的な評価を気にして、これを断ったようである。 『鉄道』1873年。油彩、キャンバス、93.3 × 111.5 cm 。ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)。1874年サロン入選。 『オペラ座の仮面舞踏会』1873年。油彩、キャンバス、59.1 × 72.5 cm。ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)。1874年サロン落選。 『アトリエ舟で描くクロード・モネ(フランス語版)』1874年。油彩、キャンバス、80 × 98 cm。ノイエ・ピナコテーク。 『ボート遊び(フランス語版)』1874年。油彩、キャンバス、97.2 × 130.2 cm。メトロポリタン美術館。1879年サロン入選。 『アルジャントゥイユ(フランス語版)』1874年。油彩、キャンバス、149 ×115 cm。トゥルネー美術館(ベルギー)。1875年サロン入選。 『庭のモネ一家』1874年。油彩、キャンバス、61 × 99.7 cm。メトロポリタン美術館。
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