印象派の分裂とは? わかりやすく解説

印象派の分裂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 06:37 UTC 版)

カミーユ・ピサロ」の記事における「印象派の分裂」の解説

第3回印象派展の後、グループ内での意見対立はっきりしてきた。特に印象派展売れ行き思わしくない中、サロン応募するか否かという点は深刻な問題となったルノワール1878年サロン応募したことは、他の画家にも影響与えたピサロ1878年3月カイユボットの手紙でセザンヌサロン応募可能性触れ、「残念なことだが、やがて完全なグループの崩壊起きることを予想しておかなければならない。……もし最高の画家たち抜けてしまったら、私たち芸術家組合はどうなるのでしょう?」と懸念述べている。 1879年第4回印象派展開かれた。この時は、ドガ主張によりサロン応募する者は参加させないこととされ、展覧会の名称も「独立派アンデパンダン)展」とされた。ルノワールシスレーベルト・モリゾセザンヌは、印象派展への参加見送ったが、モリゾ以外の3人の不参加理由は、サロンへの応募だった。他方ドガピサロは、ポール・ゴーギャン誘ったピサロ自身は、38点を出品した日本美術傾倒していたドガは、参加者扇面図を描くよう求めピサロジャン=ルイ・フォランだけは扇面図の出品応じたこの年の夏、ゴーギャンポントワーズピサロところを訪ねたピサロゴーギャン才能認めゴーギャン助言励まし与えた1880年第5回印象派展開かれた。この時もドガ中心となって開催され前回離脱したルノワールシスレーセザンヌ加え新たにサロン応募したモネも、グループ展から離脱したピサロ9点エッチング出品した当時ドガ版画だけで構成され雑誌昼と夜』を計画しピサロもこれに賛同し版画新し技法試みたが、雑誌計画資金不足頓挫したこの年銀行から融資を受けることができたデュラン=リュエルが、再びピサロ作品購入するようになった1881年第6回印象派展開かれた。この時、カイユボットドガ対立激しくなり、カイユボットピサロの手紙でモネルノワールシスレーセザンヌらを呼び戻すとともにドガ連れてくる仲間を外すべきだと主張した。しかし、ピサロドガ擁護した結局カイユボット自身グループ展から外れピサロ陣営6人とドガ陣営8人(メアリー・カサット両方所属)の13人で開催されることになったピサロ28点を出品した。『3月シュー小道』は評価高かったが、『ロシュシュアール大通り』のパステル画評判悪かったこの年8月27日ポントワーズで、第7子(三女ジャンヌマルグリット生まれたセザンヌゴーギャンは再びピサロのところで制作しており、ゴーギャンは、ピサロセザンヌから影響受けた。 『ウジェーヌ・ミュレの肖像1878年油彩キャンバス、64.4 × 54.3 cmスプリングフィールド美術館。 『キャベツ収穫する人々』1878-79年頃ガッシュシルク、16.5 × 52.1 cmメトロポリタン美術館第4回印象派展出品か。 『木陰風景エルミタージュ1879年エッチング。 『ロシュシュアール大通り1880年パステル、紙、59.9 × 74.2 cm。スターリング・アンド・フランシーヌ・クラーク美術館

※この「印象派の分裂」の解説は、「カミーユ・ピサロ」の解説の一部です。
「印象派の分裂」を含む「カミーユ・ピサロ」の記事については、「カミーユ・ピサロ」の概要を参照ください。

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