印象派の分裂
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第3回印象派展の後、グループ内での意見対立がはっきりしてきた。特に印象派展の売れ行きが思わしくない中、サロンに応募するか否かという点は深刻な問題となった。ルノワールが1878年にサロンに応募したことは、他の画家にも影響を与えた。ピサロは1878年3月、カイユボット宛の手紙でセザンヌのサロン応募の可能性に触れ、「残念なことだが、やがて完全なグループの崩壊が起きることを予想しておかなければならない。……もし最高の画家たちが抜けてしまったら、私たちの芸術家組合はどうなるのでしょう?」と懸念を述べている。 1879年、第4回印象派展が開かれた。この時は、ドガの主張によりサロンに応募する者は参加させないこととされ、展覧会の名称も「独立派(アンデパンダン)展」とされた。ルノワール、シスレー、ベルト・モリゾ、セザンヌは、印象派展への参加を見送ったが、モリゾ以外の3人の不参加の理由は、サロンへの応募だった。他方、ドガとピサロは、ポール・ゴーギャンを誘った。ピサロ自身は、38点を出品した。日本美術に傾倒していたドガは、参加者に扇面図を描くよう求め、ピサロとジャン=ルイ・フォランだけは扇面図の出品に応じた。 この年の夏、ゴーギャンがポントワーズのピサロのところを訪ねた。ピサロはゴーギャンの才能を認め、ゴーギャンに助言と励ましを与えた。 1880年、第5回印象派展が開かれた。この時もドガが中心となって開催され、前回離脱したルノワール、シスレー、セザンヌに加え、新たにサロンに応募したモネも、グループ展から離脱した。ピサロは9点のエッチングを出品した。当時、ドガが版画だけで構成された雑誌『昼と夜』を計画し、ピサロもこれに賛同し版画の新しい技法を試みたが、雑誌の計画は資金不足で頓挫した。 この年、銀行から融資を受けることができたデュラン=リュエルが、再びピサロの作品を購入するようになった。 1881年、第6回印象派展が開かれた。この時、カイユボットとドガの対立が激しくなり、カイユボットはピサロへの手紙でモネ、ルノワール、シスレー、セザンヌらを呼び戻すとともに、ドガが連れてくる仲間を外すべきだと主張した。しかし、ピサロはドガを擁護した。結局、カイユボット自身がグループ展から外れ、ピサロ陣営6人とドガ陣営8人(メアリー・カサットは両方に所属)の13人で開催されることになった。ピサロは28点を出品した。『3月のシューの小道』は評価が高かったが、『ロシュシュアール大通り』のパステル画は評判が悪かった。この年8月27日、ポントワーズで、第7子(三女)ジャンヌ=マルグリットが生まれた。セザンヌやゴーギャンは再びピサロのところで制作しており、ゴーギャンは、ピサロやセザンヌから影響を受けた。 『ウジェーヌ・ミュレの肖像』1878年。油彩、キャンバス、64.4 × 54.3 cm。スプリングフィールド美術館。 『キャベツを収穫する人々』1878-79年頃。ガッシュ、シルク、16.5 × 52.1 cm。メトロポリタン美術館。第4回印象派展出品か。 『木陰の風景、エルミタージュ』1879年。エッチング。 『ロシュシュアール大通り』1880年。パステル、紙、59.9 × 74.2 cm。スターリング・アンド・フランシーヌ・クラーク美術館。
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