印象派と林忠正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 13:52 UTC 版)
林が印象派のコレクションを作り始めたのは1890年(明治23年)頃からである。まだ貧しかった印象派の画家から、浮世絵の代金代りに受け取った作品が手元に溜まって、祖国の若い画家たちのためにコレクションを作ろうと思い立った。 1870年代当時、初めて印象派の作品を見たパリの人々は、「狂人の絵」とまで酷評した。パリの保守的な市民は、伝統的な絵画とはあまりにも異質な色彩や構成、その画題に肝を潰した。1890年代に入って、クロード・モネやエドガー・ドガなどの作品は高値で売れ始めたが、保守的な人々は容易に認めなかった。印象派の画家たちと親しかった林は、彼らの絵画を理解し、彼らを経済的にも援助した。貧困のうちに死亡したアルフレッド・シスレーの遺族を救うために、700フランもの拠金をしている。 当時、パリに留学していた日本人画家は、印象派の改革運動も知らず、関心も持っていなかった。日本に西洋画が採り入れられて日も浅く、まして西洋画排斥の激しい逆風の中で、西洋画の古い技法を学ぶのが精一杯であった。帰国後も、印象派が否定した茶褐色の古い西洋画や、和洋折衷の絵を描いていた。 1893年(明治26年)頃から、林は帰国する度に参考品として印象派の作品を展示していたが、見向きもされなかった。新しい絵画の担い手にしようと、黒田清輝を絵の道に転向させたのは林である。後に「日本の印象派」と呼ばれた黒田も、印象派を真に理解していたとは言えない。林は病のために、計画していた美術館建設を断念した時、誰かが実現してくれるよう遺言を残している。しかし、1913年(大正2年)、アメリカ合衆国で競売に付された林コレクションは、理解もされないまま林の夢とともに散逸した。黒田もまた、手を貸すことはなかった。
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