印象派の前史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 05:18 UTC 版)
フランスでは17世紀以来、新古典派の影響下にあるアカデミーが美術に関する行政・教育を支配し、その公募展(官展)であるサロンが画家の登竜門として確立していた。アカデミーでは、古代ローマの美術を手本にして歴史や神話、聖書を描いた「歴史画」を高く評価し、その他の絵は低俗とされた。筆跡を残さず光沢のある画面に理想美を描く画法がアカデミーの規範となった。しかし19世紀になると、その規範に従わない若い画家たちが次々に現れ始めた。 ロマン主義の画家たちは遠いはるかな過去の歴史ではなく、鋭い感受性をもって同時代の出来事に情熱的に感情移入した。テオドール・ジェリコーの『メデューズ号の筏』(1819年)は、この難破事件から受けた大きな衝撃をばねにして描かれた。ウジェーヌ・ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』は、1830年の7月革命をその直後に描き、絵の中では作者自身ともされるシルクハットの男性が銃を携えている。どちらも、静かで伝統的な理想美を追求する新古典派にはない制作態度である。絵画技法としては、色彩の多様性やスピード感、正面性にとらわれない自由な視角が特徴である。 写実主義の画家たちも、やはり新古典派のような歴史画ではなく、同時代の社会のありのままの現実を描こうとした。ギュスターヴ・クールベの『石割人夫(英語版)』、ジャン・フランソワ・ミレーの『種まく人』や『晩鐘』『落穂拾い』、オノレ・ドーミエの『三等客車(英語版)』は、現実に生活している労働者や農民、自然の姿を忠実に描こうとした。新古典派同様の暗い画面であるが、クールベはへらを使った力強いタッチ(筆触)で描いた。 バルビゾン派の画家たちは都会にはない自然の美しさに魅せられ、1820年ごろからフォンテーヌブローの森(フランス語版)で風景画に専念した。バルビゾン派という呼称は、彼らの多くが滞在した村の名前に由来する。代表的な画家に、カミーユ・コロー、テオドール・ルソーなどがいる。ミレーも晩年には彼らに合流した。彼らは戸外でスケッチをしてアトリエで完成させたが、のちの印象派の画家たちは戸外制作ですべてを仕上げた。また1860年代には、バルビゾン派の流れを汲むコロー、シャルル=フランソワ・ドービニー、ウジェーヌ・ブーダン、ヨハン・ヨンキントなどが風景のよいセーヌ河口オンフルールのサン・シメオン農場(フランス語版)に集まるようになり、印象派に直結する海辺や港の風景画を描いた。 これらの画家たちが印象派の先駆けとなった。
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