落選と小泉・安倍政権での活動
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「与謝野馨」の記事における「落選と小泉・安倍政権での活動」の解説
2000年6月の第42回衆議院議員総選挙で民主党の現職・海江田万里に敗れ、重複立候補していた比例代表東京ブロックでも復活せずに落選する。自民党は民主党に都市部を中心に議席を奪われ、「1区現象」と呼ばれる事態に陥ったが、閣僚経験者で総裁候補とも目されつつあった与謝野の落選は、1区現象の象徴として大きく報じられた。与謝野の落選について小泉純一郎は後に、「(与謝野さんが)落選していなければ自分ではなく与謝野さんが総理になっていただろう」とも述べている。 浪人時代はCS放送「朝日ニュースター」を始めマスメディアにしばしば登場、その頃誕生した小泉内閣の構造改革に当初は批判的であったが、徐々に方針転換して改革にも一定の理解を示すようになったほか、復活を期した2003年の総選挙前に派閥を離脱した。これは当時所属派閥であった志帥会における亀井静香との権力抗争に敗北し、以前に亀井が所属していた清和政策研究会の小泉首相に接近する事情もあった。 2003年11月に第43回衆議院議員総選挙で選挙区では僅差で海江田に敗れたが、比例復活で3年ぶりの国政復帰し、その後は党の金融調査会長を務める。2004年に自民党政調会長に就任し、小泉首相の進める郵政民営化に尽力し、2005年9月に行われた第44回衆議院議員総選挙で、海江田に比例区での復活を許さないほどの圧倒的な勝利を収め、5年前の雪辱を果たした。2005年に発足の第3次小泉改造内閣で、内閣府特命担当大臣(金融、経済財政政策)に就任する。2006年に小泉内閣の終わり近くに景気が少し持ち直してくると、消費者物価指数がマイナスにもかかわらず、量的緩和解除のゴーサインを出した。「デフレのほうが良い。インフレは絶対悪だ。だから物価上昇率がプラスになったら悪魔である」と語っていたという。 2006年9月26日に安倍政権が発足、安倍とは通信傍受法の成立にあたって協力したほか、財界との勉強会である「四季の会」を通じて親しい関係であるため、内閣官房長官として与謝野を起用する構想があったとされるが、与謝野の官僚寄りの姿勢を警戒して、小泉が待ったをかけたという。結局自民党税調会長(税制調査会長)に就任したが、就任直後の10月に口内に痛みを覚えるなどしたため入院し、11月に税調会長を辞任して療養生活に入った。 2007年1月初旬に退院した後も自宅療養を続け、4月13日の衆院本会議に出席し政治活動を再開し、6月8日に発売された『文藝春秋』7月号に寄せた随筆「告知」にて、喉頭癌による入院だったことを公表した。 2007年8月27日発足の第1次安倍改造内閣において内閣官房長官(拉致問題担当大臣兼務)に就任。改造にあたって安倍は菅義偉の登用を模索したが、菅の事務所費問題から断念。その後は町村信孝の就任が確実視されていたが、最終的に与謝野を官房長官に起用した。 2007年9月12日、所信表明演説直後に突如安倍が辞任表明。その後安倍は体調不良で入院という事態となった。安倍が入院しても首相臨時代理は置かれなかったが、官房長官である与謝野が官邸を事実上仕切り、「与謝野官邸」と呼ばれた。同様に党務を仕切った幹事長の麻生とともに、麻生クーデター説のやり玉の一人に挙げられ、強く批判された(その後この説はデマと判明)。同年9月26日の福田康夫内閣発足に伴い官房長官・拉致担当相を退任した。
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