オスマン統治の終焉 1908-1918
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/10 04:16 UTC 版)
「近代レバノンの歴史」の記事における「オスマン統治の終焉 1908-1918」の解説
文化的ナショナリズムはやがて政治的な主張へと移り、キリスト教徒を中心にオスマン帝国からの独立を主張する勢力が登場するようになった。一方で長年自治の恩恵に浴していた山岳レバノンでさえ、1908年の青年トルコ人革命の際には再開されたオスマン帝国議会への参加を求める声がドゥルーズを中心にあがるなど(山岳レバノン直轄県は「組織規約」の存在を理由にオスマン帝国憲法が適用されず、1877年に開会した帝国議会にも参加していなかった。1908年の場合も最終的に山岳レバノンは帝国議会への不参加を決めた)、20世紀初頭の段階では、帝国内に留まることへの支持も未だ根強いものがあった。 しかし、中央集権体制による国家の再建を目指す青年トルコ人革命後のオスマン政府は、独立の主張はもちろん、比較的穏健な自治の要求に対しても強い警戒を示し、また山岳レバノンに対しても影響力の回復を考えるようになった。様々な妥協が試みられたものの、拭いがたい相互不信は最終的に第一次世界大戦中の1915年に「統一と進歩委員会」の首脳の一人であったジェマル・パシャが行った、ベイルートにおけるアラブ知識人の処刑と、残ったアラブ知識人の「アラブ反乱」への支持というところにまで行き着く。こうしてレバノンにおけるオスマン帝国の統治は末期的な状況に陥り、1918年を迎えることになった。
※この「オスマン統治の終焉 1908-1918」の解説は、「近代レバノンの歴史」の解説の一部です。
「オスマン統治の終焉 1908-1918」を含む「近代レバノンの歴史」の記事については、「近代レバノンの歴史」の概要を参照ください。
- オスマン統治の終焉 1908-1918のページへのリンク