オスマン軍の上陸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 03:10 UTC 版)
「マルタ包囲戦 (1565年)」の記事における「オスマン軍の上陸」の解説
5月18日の夜明け頃、ついにマルタ近海にオスマン艦隊が姿を現した。彼らは島の南岸へ向かいマルサシュロック港で停泊した。グランド・ハーバーとして知られている大港から南東へわずか10キロの地点である。 マルタ騎士団は奴隷や逃亡の恐れがある者を容赦なく投獄し、戦闘に役に立たないものも城外へ退去させた。一方で戦闘に耐えうると判断された者は家財や家畜を連れてイムディーナなどの内陸にある城砦へ避難させた。そして収穫しきれなかった畑の作物を破棄し、貴重な水源を敵に利用されぬよう薬草を放り込んで味を変えたという(毒を入れたという説もあり)。 コルレッジョの記録によれば、上陸軍の司令官であるララ・ムスタファ・パシャ将軍と、艦隊を率いていたピアリ・パシャ提督との間で、停泊地をめぐってはやくも議論が起こった。狭い地域に軍勢が集中することによる混雑を懸念するピアリ・パシャは、首都に近接するグランド・ハーバーの真北にあり、シロッコを避けられるマルサシュロック港より上陸すべきとした。しかし任務の遅滞による援軍到着を懸念するララ・ムスタファ・パシャは同意せず、艦隊の錨を降ろすのは港の入り口を守る聖エルモ砦そばであり、そこから直接この砦を占領する必要があるとした。ララ・ムスタファ・パシャはマルタの中心地グランド・ハーバーを上陸後一気に攻撃するつもりであり、同時に陸上から聖アンジェロ砦と聖ミケーレ砦を攻撃するつもりであった。聖エルモ砦は銃が据え付けられた後、5月下旬には砲撃により明け渡されたという。 スレイマンが軍の指揮権を3人の指揮官に分けていたことは、後に彼らの間に深刻な亀裂を生むことになる—まずピアリとムスタファの間で、トリポリからトゥルグトが到着してからは、同じ戦場に3人の将帥が平等に指揮権を保持していた。同時期にイスタンブールからの届いたスパイの手紙には、計画が最初に聖エルモ砦の掌握を設定していたと、示唆している。上陸を完了し進撃を始めたオスマン軍部隊に対し、マルタ騎士団側も各所で応戦を始めた。
※この「オスマン軍の上陸」の解説は、「マルタ包囲戦 (1565年)」の解説の一部です。
「オスマン軍の上陸」を含む「マルタ包囲戦 (1565年)」の記事については、「マルタ包囲戦 (1565年)」の概要を参照ください。
- オスマン軍の上陸のページへのリンク