オスマン軍の敗走
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 05:05 UTC 版)
「第二次ウィーン包囲」の記事における「オスマン軍の敗走」の解説
9月12日、ポーランド・オーストリア・ドイツ諸侯の連合軍がウィーン郊外に到着、ウィーンとその周辺を見下ろすようにしてウィーン市西の丘陵上に展開した。連合軍は右翼にヤン3世率いるポーランド軍3万と、左翼にオーストリア軍及びドイツ諸侯の連合軍4万を配置し、オスマン軍と対峙した。 この日までにオスマン軍はウィーンの防衛線に突破口を開きつつあったが、ウィーン守備軍の必死の抵抗によりウィーンは辛うじて守られていた。オスマン軍は数の上でも依然としてウィーン守備軍と連合軍の合計を上回っていたが、長引く包囲戦により士気は低下しており、装備も旧式で不十分であった。またクリミア・タタール軍などオスマン軍の一部は強権的なカラ・ムスタファに反発しており、大宰相に対して非協力的ですらあった。 偵察を放ってオスマン軍の情報を探っていたヤン3世はこのような状況を掴んでオスマン軍の防備体制が弱体であることを見抜いた。連合軍による攻撃の開始は翌9月13日が予定されていたが、ヤン3世は到着した9月12日の夕刻に連合軍に総攻撃を命じた。偵察によってカラ・ムスタファの本営の位置を正確に把握していたポーランド・リトアニア共和国軍精鋭の有翼重装騎兵「フサリア」の3000騎はオスマン軍陣地の中央突破を敢行しこれを分断、そのままムスタファの本営までまっすぐ突撃し大混乱に陥れた。わずか1時間ほど続いた戦闘によってオスマン軍は包囲陣を寸断され、散り散りになって潰走した。夕暮れで暗くなったために追撃は早々に打ち切られ、カラ・ムスタファは無事に逃げ延びることができたが、戦闘はオスマン軍の惨憺たる敗北に終わった。 ヤン3世はガイウス・ユリウス・カエサルの言葉に倣い、「来た、見た、神は勝利した。」と語った。
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