オスマン海軍の躍進
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 06:36 UTC 版)
「バヤズィト2世」の記事における「オスマン海軍の躍進」の解説
ハンガリー王マーチャーシュ1世が没した後、1492年にマーチャーシュの死を好機と考えてベオグラード攻略に挑むが失敗、1495年にハンガリーと10年の休戦協定を結んだ。しかし、ベオグラード遠征と同じ1492年にモルダヴィア公国を属国化し、黒海方面への拡大は着実に果たした。黒海沿岸部のキリア、アッケルマン(いずれもブジャクに属する都市)を支配下に置いて黒海西岸の通行を確保し、クリミア・ハン国の騎兵の動員を容易にした。 陸軍と海軍に新兵器を導入して戦力の増強を進め、当時勢力を伸ばしていたヴェネツィアに対抗する戦力を蓄え、大航海時代に入っていたヨーロッパ各国と対峙するとともに、アフリカのイスラーム諸国を征服する基盤を整えた。1495年にバルバリア海賊など地中海やエーゲ海で跋扈していたムスリムの海賊をオスマン海軍に編入し、彼らの知識と経験を軍内に取り入れた。この時にオスマン海軍に編入された代表的な海賊として、ケマル・レイス、ピーリー・レイースらがいる。また、西欧から積極的に造船技術を取り入れて、新型の艦船を設計した。イタリア語、フランス語、スペイン語に由来する海事用語は、ほぼそのままオスマン語に取り入れられ、海軍で使用されたバヤズィトの時代に導入された兵器の最たるものに、キリスト教徒の技術者ヤーニがヴェネツィアの技術を取り入れて設計した2隻の大型艦船があり、全長70キュビット(約32メートル)、全幅30キュビット(約13.7メートル)の大きさを誇った。 海軍の強化中はヴェネツィアとの衝突を避けるために地道な交渉を行っていたが、1499年にバヤズィトはヴェネツィア領のレパントへ親征、別働隊としてダウード・パシャの率いる艦隊がアドリア海より出発し、艦隊には2隻の大型艦船も含まれていた。同年8月12日のゾンキオ(ツォンキオ)城近海の戦いでオスマン海軍のガレー船がヴェネツィアのガレアス船を破り、ヤーニの艦は包囲を仕掛けたヴェネツィア船を沈める勝利を収め、キリスト教徒はこの戦いを「ゾンキオの悲しい戦い」(en:Battle of Zonchio)と記録した。ダウード・パシャの艦隊はバヤズィトの本隊に合流し、8月28日にレパントをオスマンの支配下に置いた。 勝利の翌1500年に、さらにモレア半島にあるヴェネツィア領のモドン(en:Methoni, Messenia)、コロン (en:Koroni)、ナヴァリノ(en:Pylos)を獲得し、イスラム勢力の進出を重く見たヨーロッパではヴェネツィア、ハンガリー、スペイン、フランス、教皇庁による軍事同盟が結成された。同盟軍による攻撃は、艦隊がアナトリアの沿岸部を数度襲撃する程度の規模にとどまり、1502年12月にヴェネツィア、1503年3月にハンガリーと講和を結ぶに至った。しかし、それでもなお、海軍の戦力は陸軍に比べると充実しているとは言えなかった。
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