オスマン朝の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:28 UTC 版)
コンスタンティノープルの陥落後、メフメト2世は直ちに街を復興するために試みた。モスクと病院、学校などを組み合わせた複合施設群を設立し、ローマ帝国の引いた水道(ローマ水道)を補修し、後のグランドバザールの前身となる屋根付きバザールを始めとする商業施設を建設して都市インフラを再興した。また、王宮としてトプカプ宮殿の建造を開始している。この宮殿はその後も歴代スルタンによって増築が進められ、19世紀半ばまで王宮として帝国政治の中心となっていた。包囲の間都市から逃れていた人々の帰還を促し、ユダヤ教徒や被征服者のキリスト教徒にズィンミー(公認された異教徒)として一定程度の人権を保障して新都にそのまま住まわせる一方、アナトリア半島の諸都市からムスリム(イスラム教徒)の富裕者を強制的に移住させる政策をとったため、15世紀後半の50年間にイスタンブールは東ローマ帝国の末期には激減していた人口を大きく上回る大都市となった。また、スルターンはヨーロッパ中から首都に人々を招き入れ、オスマン期に持続した国際的な社会を築いている。 オスマン朝は急速に街をキリスト教の牙城からイスラーム文化の象徴に変化させた。ワクフは壮大な帝国のモスク、また度々隣接した学校や病院、ハンマムなどの公衆浴場の建設などに資金を供給するため設立された。各街区には君主や大臣などの有力者が設立したモスクが造られ、イスラム都市の伝統に則ったモスクと公共施設が整備された。また、イスラム教徒による差別と抑圧はあったものの東方正教やアルメニア使徒教会の教会、ユダヤ教のシナゴーグも数多く維持され、ムスリムのトルコ人のみならず、ギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人、そして西ヨーロッパ諸国からやってきた商人・使節など、様々な人々が住む多文化都市、東西交易の中心都市でもあった。1517年にオスマン家はイスラム帝国の地位を宣言し、イスタンブールは4世紀にわたりオスマンのカリフ(英語版)の首都として続いた。1520-1566年のスレイマン1世の治世の時代、特に偉大な芸術と建築的偉業の時代であった。主要な建築家であったミマール・スィナンは市内のいくつかの象徴的な建築物に携わり、この間オスマンの芸術や陶器、イスラームの書法、オスマンの細密画(英語版)が栄えた。イスタンブールの全人口は18世紀までに57万人に達した。19世紀初めの反乱の時代は進歩的な皇帝であったマフムト2世の高まりに導かれ、政治改革が生じ新しい技術の街への導入が認められこの時代に金角湾に橋が架けられた。1880年代にイスタンブールはヨーロッパの鉄道網と結ばれ、1883年に運行を開始したオリエント急行は、スエズ運河の自由航行に関する条約が締結された1888年にイスタンブールへの直接乗り入れを開始している。これにより、西ヨーロッパとイスタンブールは直接結ばれることとなった。近代的な水道・電気・電話・路面電車などが、オスマン債務管理局を通した公共事業により導入されていった。
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