シリアにおけるニザール派
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「ニザール派」の記事における「シリアにおけるニザール派」の解説
1095年のニザールとムスタアリーによるファーティマ朝=イスマーイール派の指導権争いで、シリアのイスマーイール派の大部分、特にダマスカス、アレッポなどのイスマーイール派はことごとくムスタアリーにつき、ニザール支持派はハマー北部などシリア中部の山岳地帯を中心にごく少数を擁するに過ぎず、小さなコミュニティに分かれた群小勢力に過ぎなかった。しかし1100年ころからハサニ・サッバーフによってアラムートからシリアにダーイーが派遣されるようになり、シリアにおけるニザール派の再組織化が急速に進み、ムスタアリー派と争うようになる。しかし、シリアの政治状況において有力な一勢力となるには、以降半世紀を必要とした。 このころにはシリアにおけるファーティマ朝の衰勢は明らかになっており、シリア・セルジューク朝および麾下の諸政権、十字軍などが混在する非常に複雑な状況になっていた。ニザール派はこの混乱を背景にハマー北部から徐々に勢力を伸ばそうとするが、イランにおけるのと同様に要塞奪取を試みてたびたび失敗している。1126年にはダマスカスのブーリー朝初代トゥグテギーンはブーリー朝統治域内におけるイスマーイール派を公認し、十字軍との前線たるバーニヤース城砦を与えている。しかしトゥグテギーンを継いだブーリーは反イスマーイール派に転じ、ダマスカスにおける反イスマーイール派暴動に荷担した。ニザール派はダマスカスから一掃されて弱体化し、バーニヤース城砦も十字軍の手に渡る。これ以降ニザール派はその拠点をハマーの西、ジャバル・バフラーに移す。1130年代にはこの区域でいくつかの城砦を購入ないし獲得、1140年には以降の拠点となるマスヤーフ城砦を得た。 シリアのニザール派は、アラムートから派遣されるダーイーによって指導された。その中でもっとも有名なのがラシード・ウッディーン・スィナーンで、1165年ころからシリアのニザール派を指導している。この時期はアラムートでのハサン2世の統治期に当たり、シリアでもハサン2世のキヤーマ宣言は受け入れられている。スィナーンはフィーダーイーを組織化し戦闘に投入、さらに暗殺も行わせた。トリポリ伯レーモン2世(英語版)(1152年没)やモンフェラート侯コンラート1世(コンラド)(1192年没)もその犠牲者といわれる。ヨーロッパにおける「暗殺教団」伝説の「山の老人」はスィナーンが直接のモデルである。スィナーンはザンギー朝や十字軍、さらにサラーフッディーンなどの諸勢力のあいだで同盟と対立を巧みに利用し、ニザール派勢力を拡大した。またアラムートに対し独立の傾向を示したが、1192年ころにスィナーンが没すると、シリアのニザール派も再びアラムートに絶対服従へ立ち戻りつつ、シリアの複雑な情勢を生き延びていった。 イランのニザール派政権がモンゴル帝国によって崩壊すると、シリアのニザール派もモンゴルの圧力を受け、さらに加えてマムルーク朝の圧力も受けるようになる。1273年には最後の城砦がマムルーク朝のバイバルスに降伏した。シリアのニザール派はマムルーク朝への服従を条件に信仰を許され、ジズヤを支払ってコミュニティーを維持した。周辺のヌサイリー派との争いを続けながら、マムルーク朝、オスマン朝の時代を生きた。シリアのニザール派は大部分ムハンマド・シャー派(後述)であったが、19世紀までにイマームの存在が確認されなくなると、インドへ使節を派遣してイマーム捜しを行うものの果たせず、一部はカースィム・シャー派(後述)のアーガー・ハーンをイマームとすることになった。現在でもカースィム・シャー派として約30,000人、ムハンマド・シャー派として約15,000人がシリアに残っている。
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