カースィム・シャー派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 10:24 UTC 版)
一方のカースィム・シャー派が姿を現すのは15世紀半ばころからである。カースィム・シャー派は一方でニアマトゥッラー教団(英語版)に属するスーフィーのタリーカとして活動した。カースィム・シャー派はイラン中央部のアンジェダーン(マルキャズィー州・アラークの東約40km)に外来のスーフィー・シャイフとして姿を現し、ムスタンスィル・ビッラー2世(1480年没)を名乗るイマームのもとサファヴィー朝と十二イマーム派スーフィー・タリーカの援助を受けて勢力を拡大した。これを現在のニザール派は「アンジェダーンの復活」と呼んでいる。アンジェダーンのイマームたちは、シーア化するイランの混乱に乗じて十二イマーム派の名の下でニザール派の勢力を拡大するほか、従来のニザール派の再統合に努めた。前述の通り、中央アジアやインドなど各コミュニティはイマームの代理者としてピールを称する地元有力者が独自に活動を続けていた。イマームは各コミュニティにダーイーを派遣、あるいは自らの著書を配布した。インドのサトパンスィーのようにイランのイマームの権威を拒否したニザール派もいたが、この時代にニザール派は再びイマームの下に統合が成し遂げられてゆく。 .mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} アンジェダーン シャフレ・バーバク マハッラート ヤズド ゴム (テヘラン) 関連地図 しかしながら、サファヴィー朝と十二イマーム派でもそのシャリーアや教義を厳格に解釈する人びともおり、ニザール派としての活動の幅はせばまることになった。前述のシャー・ターヒルの追放はそのあらわれといえよう。1574年には第36代イマーム、ムラード・ミールザーがシャー・タフマースプに処刑され、タキーヤにより十二イマーム派スーフィーの装いで生き延びていった。第40代イマーム・シャー・ニザール(1722年没)のとき、アンジェダーンからマハッラート(英語版)周辺の村に移った。さらに世紀半ばにはアフガーンの侵入とサファヴィー朝滅亡後の混乱の中、インドのコミュニティに近いイラン東部ケルマーンのシャフレ・バーバク(英語版)に移動している。 彼らは混乱する情勢を利用してケルマーンで勢力を拡大した。第44代イマーム、サイイド・アブルハサン・カハキーは1756年、ザンド朝のカリーム・ハーン・ザンドによりケルマーンのワーリー(太守)に任じられた。1792年にアブルハサンが没し、シャー・ハリール・アッラーが継承、ヤズドへ移った。1817年にハリール・アッラーが群衆に殺されると、ハサン・アリー・シャーが継承した。ハサン・アリー・シャーはガージャール朝のファトフ・アリー・シャーによってゴム太守に任じられ、マハッラートに領地を与えられた。さらにファトフ・アリー・シャーの娘と結婚、「アーガー・ハーン」の称号も与えられている。モハンマド・シャーの時代にはケルマーン太守に転ずるが、やがて確執を生じ、1841年イランを出て、1848年ムンバイへと移った。 ハサン・アリー・シャーすなわちアーガー・ハーン1世はイギリスの権威と裁定を背景に地元ニザール派コミュニティたるホージャー派におけるイマームの地位を取り戻すことに尽力し、大きな影響力を獲得して1881年に亡くなった。息子アーガー・ハーン2世の短い在位ののち、1885年その子アーガー・ハーン3世が立つ。アーガー・ハーン3世は72年にわたるイマーム位において、世界各地のイスマーイール派の再結集をおこなう一方、イスラーム改革派の政治家・思想家として卓越した業績を残した。議会制の標榜、イスラームにおける女性の人権についての再解釈、教育などの社会福祉向上を目的として活動して、ヨーロッパの上流階級ともたびたび交流し「殿下」の称号で呼ばれた。1957年アーガー・ハーン3世が没し、孫のアーガー・ハーン4世があとを継いだ。彼も祖父の方針を維持してパリを中心とする「アーガー・ハーン開発財団」Agha Khan Development Networkを組織、パキスタン・アフガニスタンなど第三世界各国で社会福祉活動を行っている。またアフガニスタンのイスマーイール派はさまざまな形でアフガニスタン内戦におけるアクターとして活動した(インド移住後の動きの詳細はホージャー派、アーガー・ハーンおよび各アーガー・ハーンの人物記事参照)。 現在ニザール派信徒はインド、パキスタンを中心にアフガニスタン、中国、タジキスタンなど中央アジア・インド方面、タンザニアを中心とする東アフリカ、ミャンマーを中心とする東南アジア方面、そして欧米に数百万人を数える。
※この「カースィム・シャー派」の解説は、「ニザール派」の解説の一部です。
「カースィム・シャー派」を含む「ニザール派」の記事については、「ニザール派」の概要を参照ください。
- カースィム・シャー派のページへのリンク