ファトフ・アリー・シャーとは? わかりやすく解説

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ファトフ・アリー・シャー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/24 04:09 UTC 版)

ファトフ・アリー・シャー1772年9月5日 - 1834年10月23日ペルシャ語で、 فتح على شاه قاجار)は、ガージャール朝第2代シャー




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ファトフ・アリー・シャー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 09:24 UTC 版)

ガージャール朝」の記事における「ファトフ・アリー・シャー」の解説

アーカー・ムハンマド・ハーン幼時去勢されていたため子がなかった。大宰相(サドレ・アーザム)のハジ・エブラーヒーム(fa)・キャラーンタル・シーラーズィーはアーカー・ムハンマド・ハーン死去によって瓦解する兵力再編成しファールス太守であったシャーの甥ソルターン・バーバー・ハーンをテヘラン迎えた。これが第2代ファトフ・アリー・シャー(1797年7月28日即位翌年3月19日戴冠)である。ファトフ・アリー・シャーはイラン国内での評判は必ずしも高くない彼の生涯特筆すべきものはハレム規模大きかったことであり、約100人の子もがいたとされる。 ファトフ・アリー・シャーは即位早々にアーカー・ムハンマド・ハーン盟友たる有力部族長たち、アフシャール朝ザンド朝残党叔父兄弟などの一族からの挑戦を受けることになった1798年中にアゼルバイジャンにおいてクルドのサーデグ・ハーン・シャガーギー、南部のモハンマド・ハーン・ザンド、弟ホセインゴリー・ハーンなど)。ファトフ・アリー・シャーはこれらを一つ一つ退け、ガージャール王権確立する。 また1801年4月には建国功臣大宰相エブラーヒーム・キャラーンタル・シーラーズィーを罷免、のちに処刑している。これはザンド朝以降イラン東部南部広大な土地所有したペルシア人文人官僚タージーク)らの基盤王権回収することをねらったのである同時に北西イランアゼルバイジャン官僚らによる陰謀という北西南東地方的権力闘争の面も持っていた。 このようにファトフ・アリー・シャーは王権の確立努めたが、ガージャール朝権力基盤たる部族長や一族の権力徹底的に削ぐことはできず、打撃与えたのちに懐柔する微温的選択をせざるを得なかった。地方統治のためにファトフ・アリー・シャーは徐々に自らの子各地太守任じて結束固めていく。もっとも顕著なものは太子アッバース・ミールザー(英語版)のタブリーズ太守への起用である。 これ以降ガージャール朝太子(ワーリー・アフド)はタブリーズ太守としてアゼルバイジャン常駐することになり、タブリーズガージャール朝事実上副都となった各地分封された王子らは任地において地方宮廷営んで土着の部族長らと関係を深めたその結果王権シャー代替わりごとに独立傾向の強い一族による挑戦を受けることになるのであるアーカー・ムハンマド・ハーンによるカフカズ回収作戦グルジアロシアへ接近させ、1800年東部グルジアロシア併合された。これを認めないガージャール朝ロシアとの争い1804年以降散発的な武力衝突となり、第一次ロシア・ペルシア戦争勃発する。この戦い指揮したのはアッバース・ミールザーであった。 彼はロシアとの争い通じて戦い都度部族民から編成される軍の近代化必要性実感兵制改革進め洋式軍ネザーメ・ジャディードを編成している。これがイランにおける近代化嚆矢いえよう。アッバース・ミールザーは連年アラス川越えて交戦しエレバン確保し戦争優勢に進めた1810年には宗主権イランへの返還を含む和平条約ロシアから申し出られたがこれを拒否、かえって1812年アスラーン・デジュの戦いロシア語版)で決定的な敗北喫してしまう。 この結果ナポレオン・ボナパルトロシア遠征によるヨーロッパ情勢急激な展開、とりわけティルジット条約瓦解によるイギリスロシア帝国接近背景に、イギリス仲介によりゴレスターン条約1813年9月13日調印)が締結されガージャール朝グルジアバクーなどアゼルバイジャン北半を失ったロシアカフカスを完全に掌握するために、コーカサス戦争1817年-1864年)を開始カフカズ西部でのロシア活動黙認したオスマン帝国との間にもオスマン・イラン戦争トルコ語版)の戦端開かれギリシャ独立戦争1821年-1829年)に忙殺されオスマン帝国圧倒して一時バグダードを落とす勢いであったが、こちらもイギリスの介入があり1823年7月28日エルズルム条約First Treaty)で終結した1826年第二次ロシア・ペルシア戦争勃発1828年トルコマーンチャーイ条約第二次ロシア・ペルシア戦争講和条約)が締結されカージャール朝イランロシアへアーザルバーイジャーン(タリシュ・ハン国(英語版))及びアルメニア(エレバン・ハン国(英語版)とナヒチェヴァン・ハン国(英語版)への宗主権承認)を割譲したが、この間1827年ロシアナヴァリノの海戦参戦したことをきっかけに、1828年オスマン帝国露土戦争 (1828年-1829年)始めると、1830年ナクシュバンディー教団イマーム国(英語版)を建国し、さらにクリミア戦争1853年-1856年)を挟んだことで、コーカサス戦争泥沼化した。 1847年5月31日エルズルム条約Second Treaty)により、1639年のガスレ・シーリーン条約英語版)の国境線が再確定された。

※この「ファトフ・アリー・シャー」の解説は、「ガージャール朝」の解説の一部です。
「ファトフ・アリー・シャー」を含む「ガージャール朝」の記事については、「ガージャール朝」の概要を参照ください。

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