モハンマド・シャー
モハンマド・シャー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 09:24 UTC 版)
「ガージャール朝」の記事における「モハンマド・シャー」の解説
ファトフ・アリー・シャーの後を継いだのが、モハンマド・シャー(在位1836年 - 1848年)である。彼の時代には、イギリスの南方からの進出が進み(第一次アフガン戦争(英語版)、1839年 - 1842年)、1839年、1841年の2回にわたりヘラートが陥落し、イギリスもまた、ロシアが持つ最恵国待遇を獲得することに成功した。それ以降、イランの半植民地化が徐々に進行することとなった(グレート・ゲーム)。 また、この時代、ガージャール朝に対し、アーガー・ハーン1世(英語版)をリーダーとするイスマーイール派の反乱と、セイイェド・アリー・モハンマド(通称バーブ)が組織したバーブ教徒の反乱が頻発するようになった。前者の鎮圧により、アーガー・ハーン家はインドへの逃亡を余儀なくされるが、インドで経済的に成功を収める契機となっていく。深刻だったのはバーブ教の存在であった。バーブは、1844年3月24日、突如として「神の啓示」を受けたとし、自らを「神隠れしたイマーム」そのものを自認していった。バーブの布教活動は、王政とシーア派宗教社会自体に打撃を与えると同時に、ガージャール朝の支配、ヨーロッパ進出を公然と批判していった。1848年、モハンマド・シャーが崩御するとバーブ教徒は、ついに蜂起を果たす。
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