モハンマド・アリー・ラジャーイー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/04 09:24 UTC 版)
モハンマド・アリー・ラジャーイー محمدعلی رجایی |
|
![]()
モハンマド・アリー・ラジャーイー(1981年撮影)
|
|
|
|
任期 | 1981年8月2日 – 1981年8月30日 |
---|---|
最高指導者 | ルーホッラー・ホメイニー |
首相 | モハンマド・アリー・ラジャーイー(兼務) モハンマド・ジャヴァード・バーホナル |
|
|
任期 | 1980年8月11日 – 1981年8月5日 |
最高指導者 | ルーホッラー・ホメイニー |
大統領 | アボルハサン・バニーサドル モハンマド・アリー・ラジャーイー(兼務) |
|
|
任期 | 1979年11月7日 – 1979年8月11日 |
内閣 | イスラーム革命評議会 |
|
|
任期 | 1980年5月28日 – 1980年8月11日 |
選挙区 | テヘラン・レイ・シェミーラーナート地区 |
|
|
出生 | 1933年7月15日![]() |
死去 | 1981年8月30日(48歳没)![]() |
政党 | (モジャーヘディーネ・ハルグ→) (自由運動→) イラン・イスラーム教師協会 |
出身校 | タルビヤト・モアッレム大学 |
配偶者 | アーテゲ・セディーギー (1958年 - 1981年) |
子女 | 3人 |
宗教 | イスラム教シーア派十二イマーム派 |
署名 | ![]() |
モハンマド・アリー・ラジャーイー(ペルシア語: محمدعلی رجایی, ラテン文字転写: Moḥammad-‘Alī Rajāī, 1933年7月15日 - 1981年8月30日)は、イランの政治家、教師。同国大統領(第2代)。また首相を務めた事もあり、首相在任時に外務大臣を兼任した。日本のメディアにおける旧表記はラジャイ。
経歴
ラジャーイーは1933年、ガズヴィーンに生まれた。1959年、タルビヤト・モアッレム大学から教育学の学位を得て卒業した[1]。
イラン・イスラーム革命の強力な支持者であり、イラン諸大学における欧米の影響力排除の運動指導者であった。この活動はのちにイスラーム文化革命と称されることになる。さらにイランにおける70歳定年制導入の運動を始めた。
暗殺
1981年8月30日、ラジャーイー大統領はモハンマド・ジャヴァード・バーホナル首相とともに防衛最高評議会に出席。目撃者がのちに語ったところによると、信頼する補佐官がブリーフケースを会議室に持ち込み、大統領と首相のあいだに置いて立ち去った。別の人物がそれを開くと、それが引き金となり爆発。部屋は炎上し、ラジャーイー、バーホナルほか3人が殺害された[2]。犯行は反体制武装組織であるモジャーヘディーネ・ハルグによって実行された。
大統領在職期間は16日であった。
出典
公職 | ||
---|---|---|
先代 アボルハサン・バニーサドル |
![]() 第2代:1981年8月2日 – 1981年8月30日 |
次代 アリー・ハーメネイー |
先代 メフディー・バーザルガーン (イラン暫定政府首相) |
![]() 初代:1980年8月11日 – 1981年8月5日 |
次代 モハンマド・ジャヴァード・バーホナル |
先代 モハンマド・キャリーム・ホダーパナーヒー (代行) |
![]() 代行:1981年3月11日 – 1981年7月5日 |
次代 ミールホセイン・ムーサヴィー |
先代 ゴラームホセイン・シュクーヒー |
![]() 第2代:1979年11月7日 – 1979年8月11日 |
次代 イーラジュ・シェゲルフ・ナハイー (代行) |
固有名詞の分類
イランの政治家 |
マフムード・アフマディーネジャード モスタファー・チャムラーン モハンマド・モサッデク モハンマド・アリー・ラジャーイー モハンマド・ハータミー |
イランの大統領 |
ハーシェミー・ラフサンジャーニー マフムード・アフマディーネジャード モハンマド・アリー・ラジャーイー モハンマド・ハータミー アリー・ハーメネイー |
- モハンマド・アリー・ラジャーイーのページへのリンク