若年期とキャリア初期
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「ミールホセイン・ムーサヴィー」の記事における「若年期とキャリア初期」の解説
ミールホセイン・ムーサヴィーは1941年9月29日、イラン東アーザルバーイジャーン州ハーメネに生まれた。父ミール・エスマーイールはタブリーズ出身の茶商人であった。ムーサヴィーはハーメネで育ち、1958年に高校を卒業するとテヘランに移った。ムーサヴィーはハーメネに地縁をもつアリー・ハーメネイーの血縁で、ムーサヴィーの祖母はハーメネイーの父方の叔母にあたる。 60年代初期、ムーサヴィーは一人の青年としてイラン自由運動に緊密な関わりを持った。イラン自由運動は宗教的・民族主義的政党でメフディー・バーザルガーン、ヤドッラー・サハービー、マフムード・ターレガーニー、モスタファー・チャムラーン、アリー・シャリーアティーらによって結成されたものである。ムーサヴィーは、テヘランのホセイニーイェ・エルシャードで行われるシャリーアティーの講義に定期的に出席する学生活動家の一人であった。 建築学の学士号をテヘラン・メッリー大学(現在のシャヒード・ベヘシュティー大学)から取得、1969年には、主に伝統的イラン建築に注目して、建築学修士号を同じくメッリー大学から取得している。学生生活のかたわら、左翼運動イスラーム学生連盟に活動的メンバーとして参画している。 1969年、ムーサヴィーはザフラー・ラフナヴァルドと結婚した。ザフラーは彫刻を専攻する大学研究生で、アリー・シャリーアティーの学生としても著名であった。彼女はのちにアルザフラー大学の学長をつとめており、また前大統領モハンマド・ハータミーの政治顧問ともなっている。 ムーサヴィーは妻とともにイラン・イスラーム革命の成功に積極的役割を果たした。モハンマド・レザー・シャーの君主制に反対する街頭での抗議活動を組織したとして投獄されたこともある。革命が近づくにつれ、早い段階からチェ・ゲバラを政治的英雄としていたムーサヴィーは、闘争により積極的に関わるようになり、まもなく革命指導者ルーホッラー・ホメイニーの緊密な協力者モハンマド・ベヘシュティーの戦列に加わった。 1979年1月、シャーは亡命。数週間後にホメイニーがテヘランへ帰還した。 ムーサヴィーはベヘシュティーによる1979年のイスラーム共和党の設立に協力。これはイランにおけるイスラーム共和国の創設と君主制の早急な打倒のためのものである。イスラーム共和党でムーサヴィーは政治書記となり、また機関紙「ジョムフーリーイェ・エスラーミー」の編集長を務めた。 1979年半、ムーサヴィーはホメイニーからイスラーム革命評議会議員に任じられた。ジョムフーリーイェ・エスラーミーの編集長として、初代大統領アボルハサン・バニーサドルに反対。1981年にバニーサドルが議会の弾劾を受けてフランスへ出国するまで強い非難を加えた。 1981年8月15日、モハンマド・アリー・ラジャーイー政権での政府再建の一環として、外務大臣に任じられた。首相に昇任する1981年12月15日まで約5ヵ月在任した。
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