共和党の設立
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北部の者達は北部の社会が南部のものよりも優れていると考え、南部が現在の境界を越えて奴隷の力を拡げようという野心を持っていると徐々に確信するようになり、紛争もあり得るという見解になりつつあった。しかし紛争は共和党の支配的立場を必要とした。共和党は辺境での「自由土地」を人気を呼ぶ感情的な問題として政治活動を行い、結成後わずか6年でホワイトハウス(大統領)を掴んだ。 共和党はカンザス・ネブラスカ法の立法化に関する議論の中で成長した。カンザス・ネブラスカ法に対する北部の反応が起こると、その指導者は新たな政治的組織を作るように動いた。ヘンリー・ウィルソンは、ホイッグ党が既に死んでいると宣言し、それを蘇らせる如何なる動きにも反対すると誓った。「ニューヨーク・トリビューン」のホレイス・グリーンリーは、新しい北部の政党の結成を要求し、ベンジャミン・ウェイド、サーモン・P・チェイス、チャールズ・サムナーなどがネブラスカ法案に反対する同盟について語るようになった。「ニューヨーク・トリビューン」のガマリエル・ベイリーは5月に反奴隷制側のホイッグ党議員と民主党議員の党員集会の招集に動いた。 集会は1854年2月28日にウィスコンシン州リポンの会衆派教会で開催され、ネブラスカ法案に反対する30人程の者が新しい政党の結成を要求し、党名には「共和党」が最も適当であると提案した(これはその動機を独立宣言に結びつけるためであった)。これらの提案者が1854年の夏に多くの北部諸州で共和党を結成するための指導的な役割を演じた。保守的および中道的な者達は単にミズーリ妥協を回復するか奴隷制の拡大を禁じるかを要求するだけで満足していたが、改革派は逃亡奴隷法の撤廃と、奴隷制が存在する州での急速な奴隷制廃止を主張した。「改革」という言葉は領土における奴隷制を拡大した1850年の妥協に反対する者達にも適用された。 しかし、後出しの恩恵も無く、1854年選挙では反奴隷制よりもノウ・ナッシング運動の方が勝利する可能性を示していた。カトリックと移民の問題が奴隷制よりも民衆に訴える力があるように思われたからである。例えば、ノウ・ナッシングズは1854年のフィラデルフィア市長選挙で8,000票以上の大差で勝利していた。ダグラス上院議員はそのカンザス・ネブラスカ法に対する大きな反論を受けた後ですら、民主党に対する基本的な脅威として、共和党よりもノウ・ナッシングズの方を上げていた。 共和党が自分達は「自由労働」を主張する政党であると主張すると、その支持者が急増したが、主に中流階層による支持であり、賃金労働者や失業者など労働階級の支持ではなかった。共和党が自由労働の美徳について褒めそやす時、それは単に「事を成就した」多くの者と実際にそうしたいと考えているその他多数の経験を反映しているだけであった。イギリスのトーリー党と同様に、アメリカの共和党は民族主義者、均質主義者、帝国主義者および国際人として浮上してきた。 まだ「事を成就し」ていない人々の中には、北部の工場労働者の中での比率が大きく伸びていたアイルランド移民が含まれていた。共和党はその秩序ある自由という構想に基本的に必要な自制心、克己心、および冷静さという性格がカトリックの労働者には欠けていると見なすことが多かった。共和党は、教養、信条および勤勉さには高い相関があると主張していた。それはプロテスタントの労働倫理の価値観であった。共和党支持のシカゴ・デモクラティック・プレスは、1856年の大統領選挙でジェームズ・ブキャナンがジョン・C・フレモントを破った後の社説に「自由学校が悩みのタネと見なされる所、宗教が疎んじられ、怠惰な浪費が支配的な所、そこではブキャナンが強い支持を受けた」と書いた。 民族と宗教、社会と経済および文化の断層線がアメリカ社会に走っていたが、党派色を強めていくことになり、上昇する産業資本主義に利益を見出すヤンキーのプロテスタントと、南部の奴隷所有者の利益に結びついた者に対する反対を強めたアメリカ的民族主義者の対抗という形になっていった。例えば、評価の高い歴史家ドン・E・フェーレンバッヒャーはその著書「1850年代における偉人、リンカーンへの序曲」の中で、イリノイ州では目立った選挙結果は開拓地の地域形態と相関があることを指摘して、いかに国の政治の縮図となっているかを述べた。南部出身者が入植した開拓地は民主党に忠実であり、ニューイングランドからきた者は共和党に忠実であった。さらに境界にあたる地域は政治的に中道であり、慣習的に力の均衡を図っていた。宗教、倫理感、地域および階級的同一性が縒り合わさり、自由労働と自由土地の問題は容易に人々の感情をあおった。 「血を流すカンザス」における次の2年間の出来事は、カンザス・ネブラスカ法によって元々北部の一部の者に引き起こされた民衆の熱情を維持させた。北部出身の者は新聞や説教および奴隷制度廃止論者組織の力強い情報宣伝によって勇気づけられた。マサチューセッツ移民援護会社のような組織から財政的な援助を受け取ることも多かった。南部出身の者はその出てきた地域社会から財政的支援をしばしば受けていた。南部の者達は新しい領土で出身地の憲法で保障された権利を守ることを求め、「敵対的また破滅的な立法」を撃退するに十分な政治的力を維持しようとした。 大平原は綿花の栽培にはほとんど不向きであったが、西部が奴隷制に開放されることを要求した南部の者達は心の中には鉱物のことを考えていた。例えばブラジルでは、鉱業に奴隷の労働者を使って成功した事例があった。18世紀の中頃、ミナスジェライス州では金鉱に加えてダイヤモンドの採掘が始まり、ブラジル北東部の砂糖生産地域から奴隷を連れたその所有者が大挙して押し掛けた。南部の指導者達はこの事例を良く知っていた。それは既に1848年の奴隷制擁護派雑誌「デボウズ・レビュー」で奨励されていた。
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