共和党の構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 09:00 UTC 版)
共和党は1856年の大統領選挙で大きな敗退を味わったが、その指導者達は、北部の有権者のみにアピールしたとしても、1860年の大統領選挙で勝利するためにはペンシルベニア州とイリノイ州のような2つの州での勝利を増やせばいいだけだと認識していた。 民主党は自分達の問題に関わっていたので、共和党の指導者達は選出された党員に西部での奴隷制問題に集中させておけば、民衆の支持をかり集めさせることができた。チェイスはサムナーに宛てて、もし保守派が成功すれば、自由土地党を立ち上げる必要があるかもしれないと書き送った。チェイスは多くの共和党員が政治的及び経済的な議論の場で奴隷制に対する道徳面での攻撃を控えている傾向があることで特に邪魔されてもいた。 西部での奴隷制に関する論争はまだ奴隷制問題の落ち付け所を見付けられないでいた。党派間の緊張関係にあった古い制約は北部の大衆政治と大衆民主主義の急速な拡大によって弱くなっていたが、西部における奴隷制問題に掛かる論争の長期化はまだ、南部の革新的民主党と北部の革新的共和党の努力を必要としていた。彼らは党派間抗争が政治的議論の中心に残っていることを確認する必要があった。 ウィリアム・スワードは、民主党が議会の多数派であり、議会、大統領および多くの国の政庁を支配していた1840年代にこの可能性を予測していた。国の行政組織と政党制は、奴隷所有者が国の新領土に拡がることを許し、国の政策に強い影響を与えることを許していた。多くの民主党指導者が奴隷制に反対する立場をとることで民衆の不満は拡大し、党が南部寄りの姿勢を強めていると自覚すると、スワードはホイッグ党にとって、民主主義と平等という美辞麗句で民主党が強力に独占している状態を打ち破る唯一の方法は、党の綱領として反奴隷制を受け入れることだと確信するようになった。北部の人口が増えていることに対し、南部の労働システムはアメリカ的民主主義の理想の対極にあるもののように見えてきた。 共和党員は「奴隷勢力による陰謀」の存在を信じていた。それは連邦政府を掌握し、憲法を自分達の目的に合わせて悪用しようとしていた。「奴隷勢力」という概念は、スワードのような男達が長い間政治的に親しもうと願ってきた反官僚政治という訴えを共和党員に与えた。古い反奴隷制議論に奴隷制は北部の自由労働と民主主義の価値観に脅威をあたるという考えを結びつけることにより、共和党が北部社会の中心にあった平等主義者の見解に踏み込むことを可能にした。 この意味で1860年の大統領選挙の時、共和党の演説者はこれら原則を体現する者として「正直なエイブ」とすら呼び、繰り返しリンカーンのことを「労働者の子」や「辺境の息子」と表現して、いかに北部で「正直な産業と労働」が報われるかを証明した。リンカーンは元ホイッグ党であったが、「広い覚醒」(共和党クラブの一員)が切り取ってきた線路の模型を使ってリンカーンの卑しい生まれを有権者に覚え込ませるようにした。 ほとんど全ての北部州において、組織者達は1854年の投票で共和党あるいは反ネブラスカ勢力に融合を起こさせるように運動した。急進的共和党員が新しい組織を支配している地域では、包括的革新計画が党の政策になった。彼らが1854年の夏に共和党を結党させたまさにそのように、急進派は1856年の党の全国的組織化にも重要な役割を果たした。ニューヨーク州、マサチューセッツ州およびイリノイ州での共和党会議は急進的綱領を採択した。ウィスコンシン州、ミシガン州、メイン州およびバーモント州におけるこれら急進的綱領は通常政府と奴隷制の分離、逃亡奴隷法の撤廃、およびこれ以上奴隷州を増やさないことを要求した。急進派の影響が強いときのペンシルベニア州、ミネソタ州およびマサチューセッツ州でも綱領になった。 1860年、シカゴでの共和党大統領候補指名会議で、保守派は以前から急進派との評判があったウィリアム・スワード(ただし、1860年までにホレース・グリーリーに中道に過ぎると批判されていた)の指名を妨げることができた。他の候補者は早くから党員になるかホイッグ党に対抗する党を作ったことがあり、それ故に多くの代議員を敵に回していた。リンカーンが3回目の投票で選ばれた。しかし、保守派は「ホイッグ色」を復活させることまではできなかった。奴隷制に関する会議での決議はほぼ1856年のものと同じであったが、言葉の使い方が急進的ではなくなった。次の数ヶ月間、トマス・ユーイングやエドワード・ベイカーのような保守派共和党員ですら、「新領土の通常状態は自由である」という綱領の文句を受け入れた。全般的に見て、組織者達は共和党の公式政策を形作る効果的な仕事をしたと言えた。 南部の奴隷所有者の興味は、共和党の大統領という見込に直面し、また党派間の力関係を変えることになる新しい自由州の加盟であった。多くの南部人にとって、ルコンプトン憲法問題での敗北は多くの自由州が合衆国に加盟してくることを予感させるものであった。ミズーリ妥協の時点に戻って南部地域は上院で競い合えるように奴隷州と自由州のバランスを維持することを求めた。1845年に最後の奴隷州が認められて以降、自由州は5州が加盟していた。北部と南部のバランスを保つという慣習は自由土地州を多く加えることですでに廃れていた。
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