若年期からデビュー直後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/15 09:28 UTC 版)
「デイヴ・マシューズ」の記事における「若年期からデビュー直後」の解説
デイヴ・マシューズこと本名デヴィッド・ジョン・マシューズは、南アフリカ共和国のヨハネスブルグで4人兄弟の3番目の子として生まれた。2歳の時、マシューズ一家は父親の仕事の関係でアメリカ合衆国ニューヨーク州のヨークタウンへ引っ越した。 1974年、一家はイギリスのケンブリッジに移った後で、1年後にニューヨークへ戻り、1977年にマシューズの父が肺がんで没した。この父の死が、マシューズの「その日を摘め」的な歌詞に影響をもたらしたと、伝記作者の Nevin Martell が主張している。ニューヨークに住んでいるとき、マシューズは母に連れられて初めてピート・シーガーのコンサートを観た。そして一家は、1977年にヨハネスブルグへ再度戻った。 マシューズが高校を卒業した頃は、南アフリカでは市民的不服従が巻き起こっていて、その頃にマシューズは南アフリカ軍からの徴兵を受けたが、平和主義的なクエーカーであるマシューズは、徴兵を避けるために南アフリカを出た。 1986年にニューヨークに移り、IBMで短期間働いた後、マシューズ一家がデイヴが生まれる前にかつて暮らしていたバージニア州シャーロッツビルで、母と共に暮らした。そして、マシューズはシャーロッツビルのローカルの音楽コミュニティの一員になった。ローカル・スターのティム・レイノルズに時々ステージへ呼ばれて演奏に加わったり、他の友人であるロス・ホフマンからレコードを録音するよう説得された。初めてのプロしてのギグはシャーロッツビルのモダンダンス大会で行い、トランペット奏者のジョン・ダースらが作曲した「Meaningful Love」を歌った。1991年に、マシューズは自分のバンドを結成することを思いついた。 マシューズは、リロイ・ムーア、カーター・ビューフォード、ステファン・レザード、ピーター・グラソー(1993年脱退)、ボイド・ティンズレーと、デイヴ・マシューズ・バンドを結成した。このバンドが行った最初のショーは、1991年3月14日にシャーロッツビルのナイトクラブで行われた中東の子供たちのためのチャリティ・ショーだった。 1994年、南アフリカに住んでいたマシューズの姉が夫に殺害される事件が起こった。この事件は、マシューズの生命に対する考え方に影響を及ぼし、「Shutgun」などの彼の一部の曲でそれを確認できる。1994年1月29日、マシューズはティム・レイノルズと、ニューヨークで姉との思い出をテーマに演奏をした。翌年に発表されたデイヴ・マシューズ・バンドのアルバム『Under the Table and Dreaming』は、姉に捧げられている。姉の遺児2人は、アメリカへ旅立ち、デイヴとその妹が躾などの面倒を責任をもってみた。
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