若年時代及び信念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/03/18 14:25 UTC 版)
「フアン・コルティナ」の記事における「若年時代及び信念」の解説
フアン・コルティナは 1824年5月16日、メキシコのタマウリパス州カマルゴで牧場を営んでいた両親(母エステファナ・ホセアコチェアと父トリニダッド・コルティナ)の間に生まれた。3 歳の時、テキサスのリオグランデ谷下流の町マタモロスとブラウンズビルにまたがる広大な土地を母親が相続することになり家族で引越す。1846年、彼が 22 歳の時、ザカリー・テイラー将軍率いるアメリカ合衆国陸軍は、当時メキシコが主張していた米墨国境であるヌエセス川を越境してメキシコ領内に侵入した。この進軍を阻止するためにマタモロスに派遣されたマリアーノ・アリスタ将軍配下のメキシコ軍にコルティナは参加する。アリスタ将軍はコルティナに対し、近在の牧夫らを集めて軍隊を組織するよう命じた。この非正規軍である騎兵連隊(「タマウリパス (Tamauripas) と呼ばれた」)をコルティナが指揮し、米墨戦争の発端となったパロ・アルトの戦いやレサカ・デラ・パルマの戦いなどに参戦した。 米墨戦争が 1848年2月2日のグアダルーペ・イダルゴ条約により終結し、新しい国境が策定されたため、コルティナ一族の保有していた土地の多くが米国領となってしまった。新しいテキサス州当局者は彼の土地所有の主張の多くを無効にしたが、それでもコルティナは南テキサス民主党の要職に就き、依然として大農場主であった。他のメキシコ人土地所有者の多くも同様に土地を奪われ、ブラウンズビルの有力な弁護士と判事のグループを相手に、アメリカの新しい法律に無知なメキシコ人から土地を奪ったとして訴えるなど、対立が次第に深まっていった。「人間を装った吸血鬼共は、猛獣狩りをするようにメキシコ人を追いかけ、殺しまた投獄することで財産を強奪していった。」と彼は書き記している。彼自身も牛泥棒のかどで 2 度ほど起訴された。しかし、彼は既に多くの貧しいテハーノ(Tejano、テキサスが米領となったためアメリカ国籍となった元メキシコ人)らの支持を得ており、この起訴がアングロ人(アメリカからテキサスに来た白人)による単なる嫌がらせに過ぎないと判っていたので逮捕されることは無かった。テハーノの権利を守る目的でコルティナは私兵による軍隊を組織し、実際にそれはある程度機能した。その結果彼は貧しい階層の人たちのリーダー的存在となり、アングロ人による権力の濫用に立ち向かうヒーローと見られるようになった。
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