ナーセロッディーン・シャーとは? わかりやすく解説

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ナーセロッディーン・シャー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/24 04:10 UTC 版)

ナーセロッディーン・シャー1831年7月16日 - 1896年5月1日ペルシア語: ناصرالدین شاه قاجار‎)は、ガージャール朝第4代シャー(在位:1848年9月17日 - 1896年5月1日)で、第3代シャーモハンマド・シャーの子。イランの歴史の中で、サーサーン朝シャープール2世サファヴィー朝タフマースブ1世に次いで3番目に長く在位した君主で、治世は50年近くにわたる。シャーとしては初めて日記を刊行した人物でもある。イラン国王として日本人と初めて接触した人物でもある。




「ナーセロッディーン・シャー」の続きの解説一覧

ナーセロッディーン・シャー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 09:24 UTC 版)

ガージャール朝」の記事における「ナーセロッディーン・シャー」の解説

モハンマド・シャーの後を継いだナーセロッディーン・シャー(在位1848年 - 1896年)は、ロシア協力得たセイイェド・アリー・モハンマド開祖とするバーブ教徒の反乱各地勃発し、その鎮圧翻弄されていたが、アミール・キャビールバーブ教徒の反乱の鎮圧活躍し1850年にアリー・モハンマドは銃殺された(en:Execution of the Báb)。アミール・キャビールの手によって、イラン近代化推進が行われるが、1852年に、アミール・キャビールがナーセロッディーン・シャーの手によって暗殺される改革停滞してしまった。アリー・モハンマドの高弟ミールザー・ホセイン・アリーイラク追放されバハイ教興した。 ナーセロッディーン・シャーがその後採った政策とは、アフガニスタン首長国en)領ヘラートへの進出(アングロ・ペルシア戦争英語版)、1856年-1857年であった1855年アフガニスタンガージャール朝侵攻警戒してイギリスペシャーワル条約(英: Treaty of Peshawar)を締結し両国相互防衛関係築いていた。ナポレオン3世仲裁ストラトフォード・カニングアミーノッドウレ英語版)(ペルシア語: هشتپر‎、フランス語: Amīn od-Doule)の交渉が行なわれた結果パリ条約)、ガージャール朝ヘラートから手を引くと、ロシア中央アジアへの進出呼び込みen:Expansion of Russia 15001800)、ブハラ・ハン国1868年)、ヒヴァ・ハン国1873年)を次々と保護国化し、コーカンド・ハン国1876年)を併合した。このロシア中央アジア進出は、第二次アフガン戦争英語版)(1878年1880年)を誘発し1879年5月26日のガンダマク条約英語版締結によりアフガニスタン首長国en)はイギリスの保護国となったまた、パリ条約関税自主権失いヨーロッパ各国経済的権益供与することにもなった。また、ヨーロッパ流の贅沢をシャー受けたことによって、農民重税課したイギリスロシアによるイラン半植民地化を進めていく中で、イラン経済は、世界経済組み込まれていくようになったが、廉価な織物製品海外から流入したことにより、ますます疲弊していった。1872年ポール・ジュリアス・ロイターに「ロイター利権英語版)」(英: Reuter Concession)が供与されたが、ロシアバーザール商人反対に遭い権利放棄したが、その代償として1885年ペルシア帝国銀行設立した。これにより、イギリスによる財政・金融支配始まった外国人による経済的権益争奪合戦展開されるようになった。 その頂点達したのが1890年ジェラルド F.タルボット英語版)に供与された「タバコ利権英語版)」(英: Tobaccogieであった。この供与自体は、最初秘密であったが、イスタンブールペルシャ語日刊紙アフタル』(ペルシア語: اختر‎ - Akhtar)の報道により、明るみ出たエジプトウラービー革命1879年 - 1882年)を皮切りにイスラーム世界ではパン・イスラーム主義英語版)が高揚しており、約2年間の間イラン国内は、騒擾態となった。1892年聖職者バーザール商人団結して起こしたこの運動タバコ・ボイコット運動という。最終的には、イラン政府利権買戻しということ決着したが、イラン人ナショナリズム高揚する契機となった1896年に、ジャマールッディーン・アフガーニー弟子ミールザ・レザー・ケルマーニー(英語版)によって、ナーセロッディーン・シャーは暗殺された。

※この「ナーセロッディーン・シャー」の解説は、「ガージャール朝」の解説の一部です。
「ナーセロッディーン・シャー」を含む「ガージャール朝」の記事については、「ガージャール朝」の概要を参照ください。

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