明治維新から第二次大戦終結まで(1868~1945年)
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「日本とイランの関係」の記事における「明治維新から第二次大戦終結まで(1868~1945年)」の解説
1878年にロシア帝国に向かった日本の使節、榎本武揚がサンクトペテルブルクでガージャール朝ペルシャの国王ナーセロッディーン・シャーと公式に謁見した。また1880年には外務省御用掛の吉田正春を正使とする使節団が記録に残る日本人として初めてペルシャの地を踏み、テヘランでナーセロッディーン・シャーに謁見し通商の許可を得ている。しかしながら、公式な外交関係はパフラヴィー朝成立後の1926年まで樹立されなかった。1935年、パフラヴィー朝は国号をペルシャからイランに改めた。日本とイランの友好条約が調印されたのは1939年で、国王のレザー・シャーが親ドイツであったこともあり、第二次世界大戦で中立を保っていたスペイン、スウェーデン、スイスなどと同様に、日本との間で誠実な関係が築かれていた。大東亜戦争(太平洋戦争)勃発後のイランは中立を宣言したが、既にイギリスとソビエト連邦から露骨な内政干渉を受けていたイランが中立を守り抜くことは困難を極めた。 さかのぼる1941年8~9月、英ソ両国の軍隊がイランの国土を蹂躙して親ドイツ派で政治手腕に長けていたレザー・シャーを強引に廃位させて、若年で扱いやすいモハンマド皇太子を新しい君主に据えるなど、英ソ両国によるイランへの内政干渉は止まることを知らなかった。こうした外交圧力の成果もあって、1942年4月にイランは日本との国交を断絶、1945年2月28日には日本を含む枢軸国に対して宣戦布告するに至った。その後、日本とイランは国交を回復することがないまま、1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾して降伏した。
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